えいふつ‐きょうしょう〔‐ケフシヤウ〕【英仏協商】
英仏協商
英仏協商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「英仏協商」の解説
親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。ビスマルク体制下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年のファショダ事件でフランス外相テオフィル・デルカッセがイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は1903年5月にも実現した。 エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王カルロス1世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、ローマ教皇レオ13世らと会見した(教皇との会見は非公式会見。英国王は「英国国教会首長」であるため教皇との公式会見にはアーサー・バルフォア内閣から反発があり、「非公式会見」の形式となった)。 その後1903年5月1日からフランスを訪問し、大統領官邸エリゼ宮殿で大統領エミール・ルーベと会見した。何度も訪仏していたエドワードのフランス語は流暢であり、二人はすぐにも打ち解けたという。パリのイギリス商工会議所での演説では「英仏のいがみ合いの時代は終わりました」「これまでも将来もイギリスとフランスこそが平和的な進歩と文明のチャンピオンであり、パイオニアであり、文学・芸術・科学におけるもっとも高貴な国であると確信しています」と語り、パリ市庁舎での演説では「皆さんもご存じの通り、私は若い頃からしばしばパリを訪問してきました。そしてパリに戻ってくるたびに、まるで我が家のように皆さんがもてなしてくださることは、大いなる喜びです」と述べた。 当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『フィガロ』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している。 エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年7月6日に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともにヴィクトリア駅まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともにコヴェント・ガーデンの王立歌劇場でジョルジュ・ビゼーの『カルメン』、シャルル・グノーの『ロメオとジュリエット』などフランス・オペラを鑑賞した。大統領が帰国の途に就いた7月9日にもバーティはヴィクトリア駅まで見送りに出た。 このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力の大幅増強を行い、英仏のアジア・アフリカ植民地支配を脅かしており、これも英仏両国を結び付ける背景となった。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使ポール・カンボン(フランス語版)を通じてテオフィル・デルカッセ仏外相と交渉を進め、エジプト、モロッコ、ナイジェリア、シャム(タイ)、マダガスカル島、ニューヘブリディーズ諸島、ニューファンドランド島などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の英仏協商で結実した。 エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋にドレフュス事件再審をめぐって『タイムズ』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった。
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