第3共和政成立から20世紀初頭までの外交政策
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「フランスの歴史」の記事における「第3共和政成立から20世紀初頭までの外交政策」の解説
第3共和政成立から20世紀に至るまでのフランスの外交政策は、1889年にビスマルクが更迭されるまで、彼の柔軟な外交政策によって孤立を余儀なくされ、それによって封じ込められていた対独復讐の熱量は、アフリカや東アジアへの植民地政策を同じく進めていたイギリスとの対立に誘導された。フランスはアルジェリアの植民地化以降、1881年にはチュニジアを保護国化、1895年には現在のセネガルのダカールを首都とするフランス領西アフリカを成立させ、さらにサハラ砂漠を横断し、紅海に面する植民地ジブチやインド洋のマダガスカルなどとのアクセスを進めていた。しかしこうした政策は1898年にエジプトから縦断を進めていたイギリス軍と衝突するファショダ事件が発生する。最終的にこの事件はフランス側が譲歩することによって一応の解決を見せた。 アジア方面ではベトナムを巡って清国と清仏戦争が起こり、1885年には天津条約が取り交わされ、ベトナムを保護領とし、1887年にはフランス領インドシナ連邦が、さらに1890年代にはラオスと清国から租借した広州湾が連邦に編入された。 ビスマルクが更迭され、ヴィルヘルム2世の膨張政策が国際関係を緊迫させた結果、1889年のバルカン問題による独墺の接近が露仏同盟を結ばせ、1904年のドイツの海軍拡張政策が英仏協商を形成させるなど、英仏露によるドイツ包囲網が形作られていく。英仏協商で妥協が成立した結果、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、これに反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こした。露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していたテオフィル・デルカッセ外相は、日露戦争でロシア帝国が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になるとモーリス・ルーヴィエ(英語版)首相に解任され、1906年のアルヘシラス会議に解決がゆだねられた。会議でアルヘシラス議定書が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた。1908年にはフランス外人部隊の脱走兵をカサブランカのドイツ領事が匿ったカサブランカ事件が起き、仏独関係に緊張が走るも、翌1909年の独仏協定によってモロッコにおけるフランスの優位性はより高まった。1911年には再びドイツによってアガディール事件が起こされ、フランスはフランス領赤道アフリカ構成植民地の一つであるフランス領コンゴに対する一部譲渡の要求を飲んだ(モロッコ事件)。
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