ドイツ包囲網とは? わかりやすく解説

ドイツ包囲網

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)

ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ドイツ包囲網」の解説

ドイツイギリスとの関係回復は常に図ろうとしていた。1899年11月ヴィルヘルム2世は訪英を行いアングロサクソン族チュートン族大同盟(英米三国同盟構想提唱したが、実現しなかった。1899年9月に清で義和団の乱発生し、駐清ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(英語版男爵義和団によって殺害されると、ヴィルヘルム2世はただちにアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵元帥率い遠征軍清に派遣した。ヴァルダーゼーは八カ国連合軍全体最高司令官にも就任した八カ国連合軍北京占領したこの際ドイツイギリスとの間に揚子江協定締結している。しかしドイツは完全にイギリス側立ってロシア対立する意思無く満洲権益問題をこの協定から外している。これは極東権益問題においてロシア牽制しておきたいイギリス希望満たす物ではなかった。1901年にもドイツイギリス同盟提案しているが、この時もドイツロシア決定的な対立をしたがらなかったため、同盟実現しなかった。結局イギリスは「栄光ある孤立」を放棄する相手としてドイツではなく日本選び1902年対ロシア目的とした日英同盟締結されるこうした状況の中、ドイツロシアイギリス東アジア植民地化巡って対立させることでドイツ国際的地位有利にようとした。またこの頃からヴィルヘルム2世側近忠告台頭する日本警戒心を持つようになり、黄禍論固めロシア助け必要性感じるようになっていた。一方イギリスロシア抑えるため、日本支援した。またイギリス日露戦争開戦と共にフランス接近し1904年4月8日英仏協商締結している。これはフランスエジプトにおけるイギリス権益認め代わりにイギリスフランスモロッコ植民地化することを認めるというものだった。 これに対抗してヴィルヘルム2世1905年3月31日に突然モロッコタンジール訪問しフランス反感を持つスルタンモロッコ独立支援することを約束した第一次モロッコ事件)。ヴィルヘルム2世のこの行動長らく彼の好戦的性格表れとされてきたが、今日ではヴィルヘルム2世はこの訪問消極的で宰相ビューロー外務省高官ホルシュタインヴィルヘルム2世強要してやらせたのであることが判明している。ドイツフランスに対してモロッコ問題国際会議求めたフランス首相モーリス・ルーヴィエ(フランス語版)が対独強硬派フランス外相テオフィル・デルカッセ辞職させた結果1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会議開催された。宰相ビューロー同盟国イタリアオーストリア=ハンガリー、そして門戸開放国是にするアメリカドイツ立場支持するだろうと思っていたが、実際にはまったそうならなかった。アメリカイタリア英仏支持し同盟国オーストリアさえも消極的にドイツ支持する留まり結局ドイツアフリカフランス領一部で何も資源のない領域ドイツへ割譲だけで譲歩せざるを得なくなったドイツ孤立深まっただけの結果となった1905年7月24日ヴィルヘルム2世ロシア皇帝ニコライ2世フィンランド湾のビヨルケ水道会見し、「ビヨルケの密約」を結んで「独露のどちらか第三国から攻撃受けた場合他方ヨーロッパにおいて軍事的支援を行う」ことを約束した。しかしロシア側はフランスとの同盟理由にあくまでこれを密約とし、さらにロシア外相セルゲイ・ヴィッテロシア何の得もない約束であるとニコライ2世上奏したこともあり、最終的にこの密約ロシア側によって葬られた。 日露戦争結局ロシア敗北に終わる。イギリスはもはや東アジア権益問題においてロシア脅威とはならない判断し、むしろ中近東権益問題建艦競争相手であるドイツ危険視するようになるイギリスロシアとの接近開始し1907年英露協商成立した日本同盟国イギリス倣い日仏協約、ついで日露協約締結した着実と進むドイツ包囲網にヴィルヘルム2世焦っていた。 日露戦争後中国分割門戸開放政策めぐって日米対立深まった。この状況見てドイツアメリカ・清と反日同盟結ぼうとした。反日反英の清はこれに乗り気だったが、アメリカにはイギリス対立する意思はなかった。日本外相小村寿太郎もこの動き警戒して先手打ち1908年日米協商締結している。最終的に1910年から1911年にかけてアメリカドイツと距離をとってイギリス接近するようになり、これを受けてイギリスこれまでの反米姿勢修正して1911年更新され日英同盟から日米戦争発生時の日援助義務条項削除した。こうしてドイツ好意的な国は貧弱な清とオスマンだけという厳しい状態となった。 前述したが、1908年10月28日イギリスの新聞デイリー・テレグラフ」にイギリス軍大佐ヴィルヘルム2世対談掲載された(デイリー・テレグラフ事件)。その対談ヴィルヘルム2世自分は親英論者であること、そのために自分ドイツ国内孤立していること、またボーア戦争の際に露仏両国から対英大陸同盟働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリス勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊増強イギリスターゲットしたものではないことなどを主張したヴィルヘルム2世としては英国の反独感情和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝不遜な態度」にかえってイギリス世論反発し露仏激しく反発してドイツはますます孤立してしまった。 モロッコ起こったフランス暴動鎮圧すべく出動したフランス軍対抗してドイツ外相キダーレンの主導ドイツ政府1911年7月1日アガディール艦隊派遣しモロッコ領土保全門戸開放訴えフランスモロッコ権益を侵そうとして対立深めた第二次モロッコ事件)。ドイツモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領コンゴドイツへ譲渡要求し中央アフリカへの進出狙ったが、イギリスフランス断固支持表明したため、結局ドイツ新たに獲得した植民地はたいして価値のないドイツ領カメルーン領土拡大けだった1912年春にイギリス陸軍大臣ホールデン子爵英語版)を団長とする「ホールデン使節英語版)」をドイツ派遣し英独交渉が行われたが、どちらも目標達することはできなかった。ドイツ求めた大陸戦争発生した場合イギリス中立保証イギリスによって拒否されイギリス求めた建艦競争休戦提案ドイツ側拒否した宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク海軍軍備増強制限をかけることに前向きだったのが、海軍大臣ティルピッツがこれに強硬に反対した。ヴィルヘルム2世ティルピッツ支持したため、最終的に拒否することとなったであった

※この「ドイツ包囲網」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
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