ドイツ包囲網
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ドイツ包囲網」の解説
ドイツもイギリスとの関係回復は常に図ろうとしていた。1899年11月にヴィルヘルム2世は訪英を行い、アングロサクソン族とチュートン族の大同盟(英米独三国同盟)構想を提唱したが、実現しなかった。1899年9月に清で義和団の乱が発生し、駐清ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(英語版)男爵が義和団によって殺害されると、ヴィルヘルム2世はただちにアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵元帥率いる遠征軍を清に派遣した。ヴァルダーゼーは八カ国連合軍全体の最高司令官にも就任した。八カ国連合軍は北京を占領した。この際にドイツはイギリスとの間に揚子江協定を締結している。しかしドイツは完全にイギリス側に立ってロシアと対立する意思は無く、満洲の権益問題をこの協定から外している。これは極東の権益問題においてロシアを牽制しておきたいイギリスの希望を満たす物ではなかった。1901年にもドイツはイギリスに同盟を提案しているが、この時もドイツはロシアと決定的な対立をしたがらなかったため、同盟は実現しなかった。結局イギリスは「栄光ある孤立」を放棄する相手としてドイツではなく日本を選び、1902年に対ロシアを目的とした日英同盟が締結される。 こうした状況の中、ドイツはロシアとイギリスを東アジア植民地化を巡って対立させることでドイツの国際的地位を有利にしようとした。またこの頃からヴィルヘルム2世は側近の忠告で台頭する日本に警戒心を持つようになり、黄禍論を固め、ロシアを助ける必要性を感じるようになっていた。一方イギリスはロシアを抑えるため、日本を支援した。またイギリスは日露戦争開戦と共にフランスに接近し、1904年4月8日に英仏協商を締結している。これはフランスがエジプトにおけるイギリスの権益を認める代わりにイギリスはフランスがモロッコを植民地化することを認めるというものだった。 これに対抗してヴィルヘルム2世は1905年3月31日に突然モロッコのタンジールを訪問し、フランスに反感を持つスルタンにモロッコ独立を支援することを約束した(第一次モロッコ事件)。ヴィルヘルム2世のこの行動は長らく彼の好戦的性格の表れとされてきたが、今日ではヴィルヘルム2世はこの訪問に消極的で宰相ビューローと外務省高官ホルシュタインがヴィルヘルム2世に強要してやらせたものであることが判明している。ドイツはフランスに対してモロッコ問題の国際会議を求めた。フランス首相モーリス・ルーヴィエ(フランス語版)が対独強硬派のフランス外相テオフィル・デルカッセを辞職させた結果、1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会議が開催された。宰相ビューローは同盟国のイタリア、オーストリア=ハンガリー、そして門戸開放を国是にするアメリカがドイツの立場を支持するだろうと思っていたが、実際にはまったくそうならなかった。アメリカもイタリアも英仏を支持し、同盟国オーストリアさえも消極的にドイツを支持するに留まり、結局ドイツはアフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。ドイツの孤立が深まっただけの結果となった。 1905年7月24日にヴィルヘルム2世はロシア皇帝ニコライ2世とフィンランド湾のビヨルケ水道で会見し、「ビヨルケの密約」を結んで「独露のどちらかが第三国から攻撃を受けた場合、他方はヨーロッパにおいて軍事的支援を行う」ことを約束した。しかしロシア側はフランスとの同盟を理由にあくまでこれを密約とし、さらにロシア外相セルゲイ・ヴィッテがロシアに何の得もない約束であるとニコライ2世に上奏したこともあり、最終的にこの密約はロシア側によって葬られた。 日露戦争は結局ロシアの敗北に終わる。イギリスはもはや東アジアの権益問題においてロシアは脅威とはならないと判断し、むしろ中近東権益問題や建艦競争の相手であるドイツを危険視するようになる。イギリスはロシアとの接近を開始し、1907年に英露協商が成立した。日本も同盟国イギリスに倣い、日仏協約、ついで日露協約を締結した。着実と進むドイツ包囲網にヴィルヘルム2世は焦っていた。 日露戦争後、中国分割・門戸開放政策をめぐって日米の対立は深まった。この状況を見てドイツはアメリカ・清と反日同盟を結ぼうとした。反日・反英の清はこれに乗り気だったが、アメリカにはイギリスと対立する意思はなかった。日本外相小村寿太郎もこの動きを警戒して先手を打ち、1908年に日米協商を締結している。最終的に1910年から1911年にかけてアメリカはドイツと距離をとってイギリスに接近するようになり、これを受けてイギリスもこれまでの反米姿勢を修正して1911年に更新された日英同盟から日米戦争発生時の日本援助義務条項を削除した。こうしてドイツに好意的な国は貧弱な清とオスマンだけという厳しい状態となった。 前述したが、1908年10月28日にイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」にイギリス軍大佐とヴィルヘルム2世の対談が掲載された(デイリー・テレグラフ事件)。その対談でヴィルヘルム2世は自分は親英論者であること、そのために自分はドイツ国内で孤立していること、またボーア戦争の際に露仏両国から対英大陸同盟の働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリスが勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊の増強はイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張した。ヴィルヘルム2世としては英国の反独感情を和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝の不遜な態度」にかえってイギリス世論が反発し、露仏も激しく反発してドイツはますます孤立してしまった。 モロッコで起こった反フランス暴動を鎮圧すべく出動したフランス軍に対抗して、ドイツ外相キダーレンの主導でドイツ政府は1911年7月1日にアガディールに艦隊を派遣し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴え、フランスのモロッコ権益を侵そうとして対立を深めた(第二次モロッコ事件)。ドイツはモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領コンゴのドイツへの譲渡を要求し、中央アフリカへの進出を狙ったが、イギリスがフランス断固支持を表明したため、結局ドイツが新たに獲得した植民地はたいして価値のないドイツ領カメルーンの領土拡大だけだった。 1912年春にイギリスは陸軍大臣ホールデン子爵(英語版)を団長とする「ホールデン使節(英語版)」をドイツに派遣し、英独の交渉が行われたが、どちらも目標を達することはできなかった。ドイツが求めた大陸戦争が発生した場合のイギリスの中立の保証はイギリスによって拒否され、イギリスが求めた建艦競争の休戦の提案はドイツ側が拒否した。宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは海軍の軍備増強に制限をかけることに前向きだったのが、海軍大臣ティルピッツがこれに強硬に反対した。ヴィルヘルム2世もティルピッツを支持したため、最終的に拒否することとなったのであった。
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