メス攻囲戦とセダンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
「普仏戦争」の記事における「メス攻囲戦とセダンの戦い」の解説
ナンシー ヴェルダン メス シャロン スダン ランス メス攻囲戦及びセダンの戦いの関連地 詳細は「メス攻囲戦」および「セダンの戦い」を参照 バゼーヌ元帥のライン軍がグラヴロットで敗北し、メスへの退却を余儀なくされた。プロイセン第1軍および第2軍の15万人はメス要塞を包囲した。 グラヴロットでの敗北後、バゼーヌ元帥がメスに籠城した事を受け、ナポレオン3世は、メスのバゼーヌ軍と分断される形で、シャロン入りし、アルザス方面から敗走したマクマオン軍や、南方の第7軍団も同地に集結した。新たにシャロン軍としてマクマオンを指揮官としたが、仏軍の士気も装備も著しく悪い状況だった。しかし、皇帝もマクマオンも、バゼーヌを見捨てることによるフランス世論への悪影響を考慮し、パリ防衛に注力することを躊躇した。 マクマオンは、北部のランスへ移動し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から攻撃する計画を立て、8月21日に実行に移した。ところが、メスのバゼーヌは、ドイツ包囲網を西北方面に破りスダン(セダン)経由でシャロン軍と合流すると報告したため、マクマオンは東方への転進を決断した。フランスの両軍は、ムーズ川付近まで進出した。 モルトケ元帥が指揮するプロイセン軍は、フランス軍のこの動きに付け込み、フランス軍を挟撃する策に出た。ここで第1・2軍を再編成し、フリードリヒ・カール王子麾下の17万5千の兵力をメス攻囲の主力とし、そこから3個軍団を割いて、ザクセンのアルベルト王太子の下にムーズ軍を編成した。ムーズ軍はヴェルダンを経て、ナンシーに至り、プロイセン第3軍と連携してパリを目指した。 8月28日になって、ドイツはフランスの動向を知り、ムーズ軍及び第3軍を北方に進軍させた。8月30日、独ムーズ軍及び第3軍は、フランス軍を捕捉した。激しい戦いののち、ドイツ軍は兵5,000人と砲40門を失い、フランス軍はセダンに退却した。 9月1日、仏シャロン軍(202個歩兵大隊、80個騎兵大隊、砲564門)は、包囲しているプロイセン第3軍およびムーズ軍(222個歩兵大隊、186個騎兵大隊、砲774門)に攻撃を開始し、戦闘が始まった。予備として待機していたフランス軍第5軍団司令官エマニュエル・フェリックス・ド・ウィンフェン(英語版)将軍はプロイセン11軍団に対して歩兵・騎兵共同攻撃を行いたいと考えた。しかし11時までにはプロイセン砲兵がフランス軍に打撃を与えた一方、戦場には更に多くのプロイセン兵が到着した。Marguerite将軍が率いるフランス軍騎兵は、プロイセン11軍団が集まっている近在のフロアン(Floing)村に対して3度にわたり決死攻撃を掛けた。Marguerite将軍は最初の突撃のごく初めごろに戦死し、その後2回の突撃は大損害を受けただけで得るところはなかった。 その日の終わりになっても脱出できる望みはなく、ナポレオン3世は攻撃をやめさせた。フランス軍は戦死傷者1万7,000名を失い、2万1,000名が捕虜となった。プロイセン軍は2,320名戦死、5,980名戦傷、700名が捕虜または行方不明と報告している。 翌日9月2日までに、ナポレオン3世は降伏し、10万4,000名の将兵と共に捕虜となった。これはプロイセン側の圧倒的勝利であった。プロイセン軍はシャロン軍全部を捕虜にしたばかりでなく、フランス皇帝までも捕虜にしたのである。スダンでのフランス敗北は、この戦争におけるプロイセン有利を決定づけた。フランス軍はバゼーヌ軍がメス市にて包囲されて動けなくなっており、それ以外にドイツの進撃を阻む軍隊はもはやフランスにはいなくなったのである。 その後、メスのバゼーヌ軍18万人は大した抵抗もできず10月27日に降伏した。これはフランスにとって大きな痛手となった。にもかかわらず、戦争は更に3ヶ月も続いていくこととなる。
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