戦死傷者とは? わかりやすく解説

戦死傷者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)

カリヨンの戦い」の記事における「戦死傷者」の解説

カリヨンの戦いは、フレンチ・インディアン戦争中でも、最も戦死傷者が多く、その数は3,000人以上に達したフランス死傷者は、普通に考えて少ないほうで、主な戦闘では戦死104人、負傷273人、7月6日の、トレペゼ隊の実質的な離脱者を入れて550人で、フランス軍13パーセントである、パーセンテージ言えばイギリス軍とあまり変わらない。(歴史家のルネ・チャートランドによればイギリス軍の戦死傷者は、全軍の11.5から15パーセントアバークロンビーは、戦死者547人、負傷者1,356人、行方不明77人と報告したが、レビ報告によればフランス軍イギリス軍800人の兵の遺体回収したとなっていた。アバークロンビーが、実際戦死者数過少報告しているのではないかと、レビ暗示したわけである。チャートランドは、イギリス軍戦死者、または戦傷死者は主な戦闘でおよそ1,000人、負傷者は1,500人と見積もっている。7月6日小競り合いでは、イギリス軍は約100人が戦死もしくは負傷し将軍ハウもこの時に死んだブラックウォッチとして知られる42歩兵連隊は、この戦闘かなりの犠牲者負傷者出したイギリス軍発表した300人以上(うち8人は士官)の戦死者、そしてほぼ同数負傷者中でもブラックウォッチ比率大きさ表されていた。国王ジョージ3世は、1758年7月の末に、この部隊の、戦闘初期における勇敢さたたえて王立」の称号与え並々ならぬ勇猛さ対す国王喜び称賛忠誠、そして高地連隊模範たる指揮への証として、もう一つ大隊をこの連隊加えたしかしながら国王は、この戦闘連隊戦力がほぼ半分になったことは知らなかったブラックウォッチ少佐であるダンカン・キャンベル(英語版)の死に関してこのような伝説が、長きにわたり広まったことがある1742年キャンベル亡くなった兄弟幽霊夢に出て来て、タイコンデロガ再会しよう約束したタイコンデロガという地名を、キャンベル聞いたことがなかった。そのキャンベルはこの戦闘中受けた傷がもとで死んだ両軍同盟して戦闘参加したインディアンたちにも死傷者数出たはずであるが、こちらの戦死者数記録されていない

※この「戦死傷者」の解説は、「カリヨンの戦い」の解説の一部です。
「戦死傷者」を含む「カリヨンの戦い」の記事については、「カリヨンの戦い」の概要を参照ください。

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