しんがり
「しんがり」とは、戦において自軍が退却する際に最後尾を担当する部隊のことを意味する表現。
「しんがり」とは・「しんがり」の意味
「しんがり」とは、戦において自軍が退却する際に最後尾を担当する部隊のことで、漢字で「殿」と表す。後退するということは敵に背を向ける極めて危険な行為である。そのなかでしんがりは隊列の最後尾に位置し、味方がきちんと逃げられるように守る役割を果たす。退却が必要とされるのは基本的には負け戦であり、後退する自軍とは違い敵軍の指揮は高いものと考えられる。それに対して敗れた自軍はダメージを受けている場合も多く、その状況で追撃してくる敵を足止めし自らも逃げるというのは非常に難しい、命を落とす確率の高い役割であったといえる。犠牲となる覚悟が必要なうえに退却という混乱が生じる場面で味方を守らなければならないしんがりは、誰にでも務まるものではない。決して役目を放棄するようなことはあってはならず、基本的には少数精鋭で編成された。大変危険ではあるが、無事に自軍を守りながら自らも生還できれば大きく評価され、しんがりを務めた者には歴史に名を残す有名な武将も多い。しかし優れた者であっても実際の戦場において全ての重症者を助け連れ帰るというのはほぼ不可能である。自己犠牲を伴う物語は美談となりやすいが、映画やテレビドラマになるような美しい面ばかりではなかったと思われる。
しんがりは「後備え(あとぞなえ)」や「殿軍(でんぐん)」とも表されるが、「殿」と表されることが多い。なぜ殿という漢字があてられているのかというと、共通の要素をもつ「臀」に由来するとされる。臀は「尻」を意味し、尻はものごとの最後を表す際にも使用される。そのため殿が採用され、そこに「後駆(しりがり)」から変化したしんがりという音があてられた。しんがりとは反対に、戦で真っ先に敵に攻め入る者を「さきがけ」という。漢字で「魁」または「先駆け」と表す。現代においては、他人より先を行くことや先にものごとを始めるという意味でも使用されている。
しんがりは最後を表現する際に、たびたびスポーツにおいても使用される。相撲では土俵入りの際一番最後に入場する者を指す。土俵入りは行司を先頭に番付が下の者から順番に行われ、横綱には特別に「横綱土俵入り」があるため基本的にしんがりは大関や関脇が務める。競馬では最後方を走る馬のことをしんがりとし、最下位でゴールしたことを「しんがり負け」と表現することがある。
「しんがり」の語源・由来
「しんがり」はもとは「しりがり(後駆)」と呼ばれており、そこから転じたとされる。ものごとの最後という意味もある尻を指す臀と共通する要素をもつ漢字である殿があてられた。「しんがり」の熟語・言い回し
先駆けしんがりとは
「先駆けしんがり」とは、さきがけとしんがりの役割を両方担う者のことを指す。戦に臨む際には他者より先に敵軍に攻め入り、敗れて後退する際には他者を先に逃がし最後尾を守る。
しんがりを務めるとは
「しんがりを務める」とは、戦において自軍が退却する際、味方を逃がすために、最後尾で敵軍の追撃を防ぐ役割を務めること。
「しんがり」の使い方・例文
「しんがり」は、戦において自軍が退却する際に最後尾で敵軍から味方を守る役割について表現する際、以下のように使用される。・しんがりは完全なる敗北を防ぐために重要な役割である。
・今回の戦では誰にしんがりを任せるかまだ決めかねている。
・しんがりを任せるのは、責任感のある優秀な者たちでなければならない。
・次の戦ではしんがりを任されたので、命を落とすことも覚悟しなければならない。
・しんがりとして一人でも多くの味方を敵から守り自軍の役に立ちたい。
・しんがりを務めることになったが、待っている家族のためにも必ず生きて帰る。
・あの方はさきがけもしんがりも務める強者だ。
・負け戦で味方を守りながら自らも生還し、しんがりの役割をしっかりと果たしたと評価された。
・しんがりに選ばれたことを自分が評価されているのだと前向きに受け取ろう。
・しんがりは危険な役割だ。
しん‐がり【▽殿】
しんがり
京ことば | 意味 |
しんがり | 最終 |
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殿 (軍事用語)
(しんがり から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 07:35 UTC 版)
殿(しんがり)は、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう。
転じて、隊列や順番の最後尾のこと。
兵法における「殿」
本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。このため、古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた。
天文12年(1543年)、大内義隆が尼子晴久の籠る月山富田城を包囲し攻撃を加えたが、逆に味方に多くの裏切りが出て大内軍は総崩れになった。大内軍撤退の際、毛利元就・隆元父子には殿が命じられた。このとき、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、毛利軍は壊滅的な打撃を受け、元就父子も自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。だが、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を相手に奮戦して討ち死にしたことによって、元就父子はなんとか吉田郡山城に逃げることができた。
元亀元年(1570年)、越前の朝倉義景を攻めた織田信長が義弟である近江の浅井長政の離反によって、敵中に孤立した際、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿を引き受けて信長を逃がし、自らは奮戦の末に命からがら戦場を脱出した件がある(金ヶ崎の戦い)。この一件は、それまで織田家中で知恵者としては知られていても武勇の士とは見られていなかった藤吉郎の家中での評価を変え、織田家の重臣としての地位を築くきっかけとなったといわれる。しかし、最近の資料調査によると、金ヶ崎では池田勝正が殿軍を率いて朝倉軍の追撃を撃退し、木下藤吉郎は殿軍の一武将として功をあげ、織田信長から褒美を得たことがわかっている。織田武将を表現した、「木綿藤吉(秀吉)、米五郎左(丹羽長秀)、掛かれ柴田(勝家)に退き佐久間(信盛)」という言葉があり、佐久間信盛は殿を巧くこなせる人物であったという。
天正13年(1586年)、人取橋の戦いでは、兵力で勝る佐竹氏と南奥諸大名連合軍が伊達軍を圧倒し、本陣へと突入した。伊達軍は伊達政宗を逃がすため、73歳の鬼庭良直が率いる鬼庭隊が殿となり、人取橋を越えて敵中に突入し、奮戦している間に政宗は本宮城まで後退できた。さらに、連合軍が追撃する前に日没となり、この日の戦闘は終結し、同日の夜には主力である佐竹家の部将が家臣に刺殺されるという事件や、本国に江戸重通や里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため佐竹軍は撤退、伊達軍は損害を受けながらも壊滅は免れた。
兵法以外での「殿」
前述の通り「殿」は元々「
代表的なのが競馬用語として用いられるもので、カタカナでシンガリとも表記されることがしばしばある。競馬の世界では「殿(シンガリ)」の言葉単体では競走馬のレース中の位置取りが最後方になることの意味で用いられている。また、競走の結果が最下位になることを示す「シンガリ負け」や、最後の直線で最後方の位置から追い込みをかけることを示す「殿一気」[1]など、他の語とともに用いられることもある。
選手入場のように隊列を組んで行進している際に最後尾を行進する人物を「殿を務めている」と表現することもある。
脚注
関連項目
しんがり
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