釣り野伏せ
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釣り野伏せ(つりのぶせ)、釣り野伏(読み同じ)、釣野伏は、偽装退却の別称。とくに九州の戦国大名である島津氏が得意とした偽装退却戦術をこう呼称することがある。
呼称
この呼称についてはいつの時代からこう呼称されていたか判然としていないが、すくなくとも大正2年(1913年)出版の「薩藩戦史考証」(田中鉄軒)には江戸末期の兵法家徳田邕興(1738-1804[1])が書き残した「合傳流闘徴録」を紹介する形で『釣野伏の法』が記述されている[2]。一般に「野伏」とは中世、山野に隠れて追いはぎや強盗などを働いた武装農民集団のことを指すか、あるいは合戦に先立ち少人数で攻撃をしかけること[3]であり、「薩摩戦史考証」においても3方の伏兵に呼び込むために内情を知らせぬ5人の歩卒に城兵を襲撃させ1人を倒し1人を捉えさせる挑発策にこの呼称を充てている。
概要
「薩藩戦史考証」の用例は挑発による城内敵部隊の誘引策として記述してあるため、「釣り」の語義は本来の意味の「餌(野伏)で敵軍を釣る」意味であろうと考えられる。南九州で内部対立を繰り返し弱体化していた島津氏はこのような計略を駆使し次第に台頭して行くのである。島津義久の代には数万を動員する合戦が行われるようになり、耳川の戦いや沖田畷の戦いでは大規模な伏兵戦が行われており、これらも釣り野伏と解説されることがあるが、こちらは正しくは偽装退却の部類であろう。
大規模な野戦においては全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法である。まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、偽装退却つまり敗走を装いながら後退する。敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。
基本的に寡兵を以って兵数に勝る相手を殲滅する戦法であるため、中央の部隊は必然的に敵部隊とかなりの兵力差がある場合が多く、非常に難度の高い戦法である。
偽装退却の場合、要は敵を誘引する中央の囮部隊にある。戦場での退却は容易に潰走へ陥りやすい上に、敵に警戒されないように自然な退却に見せかけなければならない。この最も困難な軍事行動である「統制のとれた撤退」を行うためには、高い練度・士気を持つ兵と、戦術能力に優れ冷静に状況分析ができ、かつ兵と高い信頼関係にある指揮官が不可欠となる。
木崎原の戦いのように初期の頃の合戦において、伏兵を用いた戦い方が結果的に釣り野伏せのような包囲殲滅の形になることもあったが、後に積極的に釣りを用いるようになり、ほとんどの野戦で三面包囲殲滅戦を図るようになった。その後、島津氏は、釣り野伏せ、及びそれを応用した包囲戦法によって耳川の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦いなどの重要な合戦に勝利し、一時的にせよ九州をほぼ統一することに成功した。そして慶長の役の泗川の戦いにおいて、島津軍は数倍とも数十倍ともいう明・朝鮮の大連合軍を撃破するに至った。
類似例
大友氏配下の立花道雪など同じ九州の武将も類似した戦法を用いた記述がある。
囮部隊を偽装敗走させ、敵軍を伏兵を置いたポイントに誘導し囮部隊と伏兵で敵軍を包囲撃滅するという手法は、統率と機動力に優れたモンゴル帝国も得意としており、ワールシュタットの戦いもこの一例だといえる。
日本の戦国時代においても、大友氏の家臣の立花道雪と高橋紹運が釣り野伏せに類似した戦法をよく用い、連携して天正6年(1578年)12月3日の柴田川の戦いにて秋月種実と筑紫広門を撃退した[4][5][6][7]。天正13年(1585年)2月から4月23日までも龍造寺氏、筑紫氏、秋月氏など肥筑連合軍を久留米合戦にて度々撃破した[8][9][10]。また道雪配下の由布惟信や小野鎮幸も天正8年12月の宗像合戦にて独自の判断でこの戦法を使って宗像軍を撃退した[11][12]。
高橋紹運の子で立花道雪の婿養子となった立花宗茂は文禄・慶長の役にも朝鮮軍や明軍に対して、文禄元年(1592年)6月26日京城北方の朝鮮軍駆逐戦、文禄2年(1593年)1月10日小西行長を救援するため、弟の高橋統増と連携して明の追撃軍を撃退した龍泉の戦い、6月14日小早川秀包と連携して明の劉綎配下の別将との晋州城北の戦い、慶長3年9月の第二次蔚山城の戦いで加藤清正を救援するため蔚山へ進軍する途中、偽の夜営を設置して明将の麻貴を騙し、釣り野伏せにて包囲撃破した。このように、実戦で活用された[13]。
筑紫惟門も永禄2年(1559年)[14](一説は永禄7年(1564年)[15])4月2日(一説は5月2日[16])に大友軍と筑前侍島で交戦し、釣り野伏せのような戦術を使って、問註所鑑豊[17]、問註所鑑晴[18]、小河鑑昌[19]、佐藤刑部、星野鑑泰、犬塚尚家、田尻種廉、田尻種益、田尻種任、麦生民部大輔、麦生兵部少輔兄弟など筑後の国人衆を鉄砲で撃ち取り、大友軍を撃破した[20]。 永禄10年(1567年)、高橋鑑種や原田了栄、秋月種実、宗像氏貞らと共に挙兵し、7月11日に再び大友氏と侍島や五ヶ山城で交戦したが[21]、大友家臣・斎藤鎮実の攻撃を受けてもまた釣り野伏せのような戦術を使って二百余の死傷を与えるものの、最終的には家督を子の広門に譲って自害した形で、7月27日に降伏の願いと人質の筑紫栄門を出して、大友軍に屈服した[22]。
志賀親次は、天正14年(1586年)10月22日の岡城滑瀬口攻防戦にて元より釣り野伏せが得意の島津軍をこの戦法で撃退した。また、吉弘統幸(高橋紹運の甥)は慶長5年(1600年)9月13日、西の関ヶ原の戦いと呼ばれる石垣原の戦いで、釣り野伏せを用いて黒田孝高の軍勢に大損害を与えた。
脚注
- ^ 『徳田邕興』 - コトバンク
 - ^ 田中鉄軒「薩藩戦史考証」(皆兵社、1913年(大正2年)6月)、国立国会図書館デジタルコレクション、P.48[1]
 - ^ 『野伏』 - コトバンク
 - ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
 - ^ 紹運の智略「柴田川の戦い」
 - ^ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
 - ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.45
 - ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 立花高橋與波多筑紫挑戰之事 P.423~428
 - ^ 久留米高良山合戦
 - ^ 吉永正春『筑前戦国史』道雪、紹運、筑後出陣 p.198~200
 - ^ 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
 - ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
 - ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 蔚山合戦之事 P.550~552
 - ^ 『史料綜覧 巻十』472頁・永禄2年(1559年)4月2日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)
 - ^ 『史料綜覧 巻十』588頁・永禄7年(1564年)4月2日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)。これは、おそらく問註所家譜・文書・系図・墓碑における誤記と考えられている。
 - ^ 姓氏家系大辞典 第6巻P.6114。これもおそらく問註所家譜・文書・系図・墓碑における誤記と考えられている。
 - ^ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門の筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。 
      
- 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言
 
- 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
 - また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
 
 - ^ 鑑豊の従兄弟。町野大学助鑑成。『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94
 - ^ 筑後竹野郡代。小河新右衛門、中務大輔。 
      
- 於今度侍島合戦之砌、親父中務大輔戦死、其外被官之者共数人屆之由候、誠忠貞無比類候、仍鑑昌一期之事、任相續之旨、領掌不可有相違候、恐々謹言、卯月十六日、小河六郎(鎮昌)殿、義鎮判。
 
 - ^ 『史料綜覧』第9編之910 472頁、588頁
 - ^ 『史料綜覧 巻十』660頁・永禄10年(1567年)7月11日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)
 - ^ 秋月の合戦<九州の安東氏のルーツ(2012年7月31日時点のアーカイブ)
 
関連項目
外部リンク
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