原田隆種とは? わかりやすく解説

原田隆種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/23 13:34 UTC 版)

原田 隆種(はらだ たかたね)は、戦国時代武将大名原田氏大蔵氏嫡流)第76代当主。筑前国高祖山城城主。原田興種の子。正室は大内義隆(あるいは大内義興)の娘であり、主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。子に種門、種吉[5]、繁種、親種などがいる。


  1. ^ 『北肥戦誌』
  2. ^ 原田芳則 1939, コマ97.
  3. ^ 原田武蔵守親秀入道[1]。また、波多江氏を継承し武蔵守、中務少輔と称する。
  4. ^ 号は了清。子は上総介種秀。
  5. ^ a b 草野永久の養子となって鎮永と名を改めており、讒言の難を逃れた。
  6. ^ 草野鎮永の子で、孫にあたる。
  7. ^ 旧鎮西探題府。別名探題館。
  8. ^ 福岡県糸島郡教育会 1927, p.105
  9. ^ 『糸島郡誌』では新介を阿波守鎮続の弟・臼杵鎮広とする[8]
  10. ^ 太田孫左衛門忠茂、池園四郎兵衛種之、原田伊豆守種冬、笠新八与昌、上原新左衛門泰元
  11. ^ 臼杵鎮続は豊後に帰還した。
  12. ^ 原田芳則 1939, コマ98.
  13. ^ 子孫が記した『大蔵朝臣原田家歴伝』では、天正16年(1588年)6月22日卒。75歳で死んだとしている[12]が、天正13年(1585年)以後の記録がなく、没年の記録は存在しない。史料的に存在を示すのは天正13年3月7日(了栄・信種連署の龍造寺政家に差出した起請文が「龍造寺家文書」の中に収められている)や同年の11月15日(了栄・信種連署の宛行状8点が収められており、波多江彦次郎に対する宛行状であった「改正原田記付録」)までで、以後いつまで生きていたかは不明。


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