米多比鎮久
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 天文20年(1551年)[注釈 1] |
| 死没 | 寛永10年9月11日[注釈 2](1633年10月13日)) |
| 改名 | 米多比米王丸→五郎次郎鎮久→新蔵人→立花三左衛門→丹波守 |
| 別名 | 立花三左衛門、立花丹波守 異名:虎丹波 |
| 戒名 | 空源院殿西譽榮鎮大居士 |
| 墓所 | 福岡県柳川市西魚屋町良清寺 |
| 官位 | 丹波守 |
| 主君 | 大友宗麟→道雪→宗茂→加藤清正→宗茂 |
| 氏族 | 米多比氏(丹治氏)→立花氏 |
| 父母 | 父:米多比直知[注釈 3] |
| 兄弟 | 鎮久、某、村山鎮種[1] |
| 妻 | 立花道雪養女・吉子[注釈 4][2] |
| 子 | 米多比鎮信[注釈 5]、小田部鎮教[注釈 6]、米多比茂成[注釈 7]、薦野増時継室、由布惟貞[注釈 8]室、立花隆元[注釈 9]室、寺西次郎太夫室。 |
米多比 鎮久(ねたび しげひさ、天文20年(1551年)? - 寛永10年9月11日?(1633年10月13日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
立花氏の家臣。柳川藩大組組頭世襲家。立花四天王の一人[注釈 10]。立花六城主の1人(鷹尾城 〈筑後国〉[注釈 11])。
子は
概要
米多比氏は薦野氏と祖を同じくし、本姓は「丹治(多治比とも)」のち略して「丹」と称し、筑前糟屋郡・米多比山に居城した事により「米多比」氏を称するようになる。
豊後の大友氏についた一族と、山口の大内氏についた一族に分かれ、大内氏滅亡後は宗像大宮司宗像氏貞に属し、宗像氏・立花氏の境界となると古賀で、同族で対峙していた。
生涯
大友宗麟の家臣米多比直知[注釈 12]の子として生まれる。幼名米王丸。出生に関しては不明で1551年とも、1564年に生まれたともいう。
永禄7年(1564年)、立花鑑載が大友宗麟に対し謀叛を起こすと、鑑載の与力であった父直知は大友への挙兵に加担しなかったために謀殺される。 翌永禄8年(1565年)4月27日~5月、大友家臣吉弘鑑理・戸次鑑連らが鑑載を討伐する。
永禄10年(1567年)9月5日、宗像氏貞が立花山城へ侵攻、飯盛山[3]にて佈陣した[4]。立花鑑載と怒留湯直方は席内村、旦ノ原一帯で迎撃し、逆に宗像領の赤間山城まで攻め込んだ。しかし、宗像家臣の吉田守致と怒留湯久則と一騎打ちをして、吉田の勝ちにより宗像軍の士気が高まり、今度は宗像軍の反撃が始まった。7日、鎮久と一族の薦野増時らは自分の領地にて宗像軍の侵攻をしぶとく抵抗した[5][6]。
10月22日、鎮久と薦野宗鎮と共に1千5百の兵を率いて宗像領地内西郷、許斐に攻め込んで、福間、田島、東郷一帯に焼き討ちを行った。25日、宗像家臣小樋宗頼は冠山城でその攻勢を防備、宗像氏貞は杉連並、麻生元重らと共に2千兵を出て福間河原で対戦後、互いに撤退した[7][8]。
永禄11年(1568年)に立花鑑載が大友氏に二度と叛旗を翻した際、同僚で従兄弟でもあった薦野増時[注釈 13]も父宗鎮[注釈 14]を殺害されている。 その後薦野・米多比一族の討伐に安武民部・藤木和泉守ら八百が出されると、増時とともに三百の兵で迎え討ち、西郷原で立花方を撃退した。
鑑連(のちの立花道雪)が立花山城城督として赴任してくると、増時と共に召し出され重用される。(鎮久と増時はほぼ同時期に仕官し、また勇猛果敢であることから立花双翼の副将に名を馳せている。)
のち生の松原合戦や穂波郡の潤野原合戦で原孫九郎[9][10]、小金原の戦い(清水原の戦いとも)で石松新三郎貞景など多くの戦場で敵将を討ち取って戦功を挙げ、活躍した[11]。
道雪は鎮久の人となりを深く愛し、自らの養女・吉子を妻として与えている[12][10]。三人の男子と三人の女子をもうけたと伝わる[13]。
また立花姓を賜り「立花三左衛門鎮久」を名乗るようになる。(柳川入り後とも伝わる。)[注釈 15][14][10]
道雪の死後も宗茂とともに戦陣に臨み殊勲あり常に驍勇絶倫を以って称せられるが、彼は生涯その戦功を人に説くことが無かったといわれる[12][10]。
天正15年(1587年)九州平定の功績で、宗茂が筑後国柳河城に移封されると、鎮久は鷹尾城城代家老・三千五百石を与えられた[15]。肥後国人一揆の鎮圧でも戦功を挙げた。
宗茂が奮戦した文禄・慶長の役で次のような逸話がある。【豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮の地に在陣していた三左衛門は、ある夜山に入って子虎を仕留めて帰陣した。その事を聞いた宗茂は三左衛門を呼んで「子虎を殺せば、必ず親虎が仕返しに来る。くれぐれも油断するな。」と忠告した。これを聞いた三左衛門は再び山に赴き、その親虎を見つけて仕留めてしまった。因みに、後年になってこの時三左衛門が虎を仕留めた鉄砲を「大虎」「小虎」と命名したいう[16]。虎の歯[17]も家中に蔵する。】[12][15]
他にも碧蹄館の戦いで活躍がみられ、数十名の敵を斬って旗指物に敵の血が染められるほど奮戦。この旗指物は今も子孫の家中に蔵する[12][10]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍についた宗茂が改易されると、肥後熊本藩主の加藤清正に三千石で仕える。一方で宗茂と別居中の正室・誾千代姫[注釈 16]とその母・宝樹院[注釈 17]母子を引き取り長く孝養を尽くした[19]。
二代目加藤忠広の時におきたお家騒動「牛方馬方騒動」に巻き込まれ、証人として江戸に登った後、当時陸奥棚倉にいた宗茂預かりとなる[20]。
主君宗茂が大坂の陣の功績[注釈 18]により、 元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられると、鎮久は呼び戻され、番頭として千石を賜った。
一方「冷静沈着にして勇猛果断」と称され三潴郡城島城に4千石の知行を受けていた増時は、関ヶ原の後黒田氏に仕え旧主・道雪が眠る梅岳寺の墓守として仕えることを望んだため宗茂のもとには帰参せず、元和9年(1623年)、81歳で死去している以後、増時の系統は福岡藩家臣・立花黒田氏として存続する[21]。
その後米多比立花家(大組組頭世襲家)として2000石の家老家として藩を支えた[22]。
寛永10年に死去。享年83歳と伝わる[23]。良清寺[注釈 19]に葬られた。法名は空源院殿西譽榮鎮大居士。
その後の米多比立花家
鎮久以降、嫡男の立花鎮信―鎮実―鎮俊と続くが、後に改易されている。米多比立花家改易後は由布家が大組組頭世襲家に昇格した。
次男は小田部鎮教、三男は米多比茂成である。
人物
「人となり剛勇果断にして苟も人後に落ちることを恥じる。戦陣に臨み殊勲を立てること数回あり常に驍勇絶倫。」と評された[12][10]。
能筆家、書道の達人とも讃えられる。彼の墨色は「美婦の傾国の色に誇るが如し」というほどで誉められる[24]。
彼と一族とは柳川の堀割にも貢献があった。柳川城の南東隅で建設されたの「米多比堤」は今でも福岡県柳川市の指定文化財、重要景観物・柳川百選として保存されている[25][26]。
脚注
注釈
- ^ 生年は不明。「柳川藩叢書」と「丹治姓米多比氏略系稿」によると寛永10年に83歳で死去していることから推測。
- ^ 「旧柳川藩志」によると寛永10年9月11日、享年69歳。法號青竜院(これは実は鎮久の妻・吉子の法號。)。「筑後国史」によると、没年の記載はないが11月11日、卒年77歳、法名は空源院殿西譽榮鎮大居士と記している。[1]
- ^ 米多比大学助、弾正忠鎮家
- ^ 於吉、於與之とも。道雪の後妻(問注所氏=仁志姫=宝樹院)の連れ子(=道雪養女、誾千代の姉)。安武鎮則の娘。
- ^ 米多比民部、立花三左衛門
- ^ 米多比安太夫、右馬助、鎮孝。小田部統房養子。
- ^ 米多比采女、七兵衛、源太左衛門
- ^ 由布勝右衛門、杢右衛門、大炊助、鉄運
- ^ 大鶴(大津留)五右衛門
- ^ 由布惟信隠居の後に入れ替え。
- ^ 柳川市指定史跡
- ^ 父は元実。大学助、弾正忠、鎮家‐「丹治姓米多比氏略系稿」。また、大友宗麟と吉弘鑑理から直知の子・まだ幼名米王丸と称する鎮久への書状に、「親父戦死之次第」という内容からみると、既に永祿七年に戦死した可能性がある。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.42。
『柳川市史』史料編V近世文書(前編)78 米多比家文書 二〇 吉弘鑑理書状 御札批見候、然者御親父戦死之次第、両代相續御忠儀無比類候、仍(平出)御書申調進之候、誠面目之至、不及申候、向候相應之儀不可有疎意候、猶期来信不具書面候、恐々謹言、十一月廿五日 米多比米王丸(鎮久)殿 御報 P.746。
『柳川市史』史料編V近世文書(前編)78 米多比家文書 三 大友宗麟感状 祖父已来両代戦死之段、大忠無比類候、必追而一段可賀之候、仍一字之事、鎮久進之候、恐々謹言、十一月廿五日 米多比五郎次郎(鎮久)殿 P.742。 - ^ 母は米多比鎮久の父・米多比直知(大学助、弾正忠鎮家)の姉。
- ^ 美濃守、河内守、三河守、鎮房、浄円日芳。
- ^ 「鎮」の偏諱を受けていることから、大友義鎮の信用も深かったとされる。
- ^ 玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。享年34。
- ^ 問註所鑑豊[18](統景の祖父)の娘・仁志
- ^ 幕府に反乱未遂事件(坂崎事件)があった坂崎直盛に対して、柳生宗矩は宗茂の計謀により、この事件をよく処理した。
- ^ 誾千代の菩提寺でもある。
出典
- ^ 米多比大学の三男、新三郎。古賀郷土史研究会(8)米多比氏の墓「よろい墓」、古賀郷土史研究会(139)米多比村の村山新三郎鎮種
- ^ 法名:清龍院殿信誉宗感大姉。寬永10年10月26日卒。 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜
- ^ 今の福岡県福津市南東、古賀市北西の飯盛山。
- ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.59
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.171
- ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.50~55、P.72
- ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.164
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.172
- ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七) 立花鎮久小傳 P.238頁
- ^ a b c d e f 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十五節 柳川人物小伝(三)米多比鎮久 867頁
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)78 米多比家文書 三〇 戸次道雪・統虎(宗茂)連署感状 前之十三於清水原合戦之刻、別而被砕手、石松新三郎(貞景)被討捕、御高名次第、珍重候、尖奉達上聞候条、御感不可有余儀候、殊御被官歴々或分捕或被疵、被盡粉骨候条、是又銘々以状申候、為御存知候、同僕従源次郎高名之段、令存知候、必以時分顕御志可申候、恐々謹言、十一月廿四日 米多比新蔵人(鎮久)殿 P.749。
- ^ a b c d e 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七) 立花鎮久小傳 P.239頁
- ^ 「薦野増時と米多比鎮久 ~その1~」(『れきしのアルバム』44号、古賀市立歴史資料館、2021年3月10日発行)
- ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七) 立花鎮久小傳 P.238~239頁
- ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十五節 柳川人物小伝(三)米多比鎮久 867~868頁
- ^ 火縄銃 銘 大虎・小虎
- ^ 虎の歯
- ^ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門の筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。
- 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言
- 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
- また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十五節 柳川人物小伝(三)米多比鎮久 868頁
- ^ 中野等 『立花宗茂』P.161
- ^ 黒田(立花薦野丹治)家文書に記載。
- ^ 柳川文書館
- ^ 『丹治姓米多比氏略系稿』
- ^ 旧柳川藩志・第十八章人物・第七節書家列伝・米多比丹波
- ^ 原 達郎『柳川藩 立花家中列伝』44頁
- ^ 柳川城情報
参考資料
- 岡茂政『柳川史話』柳川郷土研究会、青潮社、1984年、角川日本地名大辞典編纂委員会
- 『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』角川書店、1988年
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)』(柳川市史編集委員会、2011年)
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(後篇)』(柳川市史編集委員会、2012年)
外部リンク
- 薦野増時と米多比鎮久 ~その1~(『れきしのアルバム』44号、古賀市立歴史資料館、2021年3月10日発行)
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