家臣団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 07:59 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2011年11月)
|
家臣団(かしんだん)とは、将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団である。特に主君のそば近くに仕えるものは近臣(きんしん)と呼んだ。
中世以前の主従関係
中世以前の武士の主従関係において武門の棟梁に従属する武士を家人と称した。こうした家人の多くは平安時代の郡司・土豪の系譜をひき、国府の在庁官人として国府行政の一端を担い、一方で院宮王臣家や有力な寺社に荘園を寄進して国府の重税から逃れることで財政負担と朝廷からの干渉・介入を防いだ。同時に対外的な武力侵攻に対しては貴い血筋と武名、朝廷や権門との親密さを背景に地方に強固な勢力を持つ武門の棟梁に臣従して本領安堵を請い、その保護下に入ることで難を逃れた。即ち、地方武士の多くは自己保存のために利害を共有できる権威・権力者と複数の主従関係を持つことで、独立と自己保存、そして勢力拡大の機会を獲得していった。特に武士間の主従関係においては利害関係が如実であり、不利な戦況にある武門の棟梁の下から去り、敵対勢力への鞍替えをしたり、背く場合もあるなど、武士の主従関係とは決して絶対的なものではなかった。初の武家政権となる鎌倉幕府が成立して以降も同様である。
室町時代に至ると、武家の主従関係はそれ以前よりは強固とな関係となる。鎌倉時代の守護の系譜をひく武家は室町幕府においても多くが守護として任ぜられ、それまでにない半済や守護請の権限を獲得し荘園への収税権をかけることができると同時に、任国の旧地頭層の系譜をひく国人領主を被官として従属させ、院宮王臣家や寺社の荘園にも守護請など一定の収税権を獲得するなど、強い勢力基盤を形成するようになった。国人領主も幕府の奉公衆の地位を得て守護の干渉を防いだり逆に牽制することもあった。逆に守護の被官として貢献度を高め守護代の地位を勝ち得たり、幕府や守護を通じて官位を得て、その威光を背景に対外勢力の侵略を防いだり、自らの支配権の正当化が図られた。
一方でそれら守護や国人の支配権は無条件に強固になったわけではなく、被官が他の守護に寝返ったり、他の国人と一揆を結んで守護の干渉を防ぐこともあった。荘園に対する収税についても守護不入権を勝ち得た荘園には介入の余地がなく、非合法で横領する他はこれらを支配下に組み入れることは困難であった。国人領主も同様であり一門や庶家、配下の土豪層とは主君と家来というよりは緩やかな同盟関係に近く、国人領主の存在は主君というより盟主に近かった。故に国人が配下の庶家や土豪の意向を無視することはできなかった。ややもすれば、国人の配下が幕府や守護に願い出て国人として自立を図ることもあれば、利害をたがえた場合、庶家が国人に公然と反逆し合戦に及ぶことすらあった。即ち、中世以前の武家の主従関係は利害を共有することにより成立し、決して絶対的なものではなかった。
戦国大名と家臣団
戦国時代以降も、主従関係において利害の共有が重要であることに違いはなかった。むしろ、下剋上やより利害を違えた場合、鞍替えすることが当然視されるに及んでより顕著となったといってよい。但し、室町時代以前の守護大名や守護代、国人領主と戦国大名の大きな違いは強固な家臣団を形成し得たかどうかにある。
大名の家臣団にとって、中世以前と大きく異なるのが、有能な家臣の登用である。一門や庶家、縁戚、或いは有力国人や土豪を系譜に持つ有力家臣が大名家の内政を左右することは珍しくないが、尾張国の戦国大名織田信長が、農民の子から足軽になった羽柴秀吉(豊臣秀吉)を家臣に登用したように、実力次第では出世が可能になるのも、戦国大名の家臣団において見られたひとつの傾向であった。一方で血縁と伝統的な主従関係の下に成立した譜代の家臣と実力を買われ登用された新参の軋轢も生まれることもあった。
また、戦国時代も後期に至ると、それまでの半独立的な地位と状況によっては命令を拒むことができた被官層を完全に従属させ家臣とし、有力な大名は城下町を形成して屋敷を与え、家臣または家臣とその妻子を住まわせることで背信を防いだり、次第に武士の土着化を防ぐようになっていった。豊臣秀吉が関白となって以降は兵農分離が進み、平時は知行地で農業にも携わった家臣を完全なる文吏または武人として専業化させるに至り、大名と家臣の関係も必要に応じ登城し務めを果たす関係から常に登城し務めを果たす専従の関係へと発展していった。
江戸時代以降
江戸時代以降となると、将軍の絶対的な権力の下で直臣たる近世大名と陪臣である家臣団の関係はより絶対的な主従関係となり、家臣に領地を与え、または本領安堵をし土地支配権を認める知行制に替えて、武士の給与を俸禄制とし、大名の土地支配権を大名が一括して担う傾向が強くなった。その中で次第に家臣団が支配下の領主群から、大名家の奉公集団への性格を強めることになっていった。平穏な時代の訪れとともに武断的な家臣よりは文治的な家臣が重用されるようになったことに加え、安土桃山時代になされた兵農分離に加え江戸時代に俸禄制が主流になったことで武士の吏僚化が益々進み、領主としての武士は官僚・役人としての武士としての性格を強めることとなった。
関連項目
家臣団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:47 UTC 版)
応仁の乱前後に、畠山氏の家臣団はそれぞれ政長方、義就方に分かれるなど混沌とした。戦国時代になり畠山氏の当主の権力が弱くなるにつれて、在地勢力でもあった「国人衆」・「大和衆」が力を有するようになったが、守護代として権力を掌握した遊佐氏・神保氏は「鎌倉衆」「鎌倉以来」の家柄であった。畠山家の家臣団は大きく分けて、出身により「武蔵衆」、「足利衆」、「鎌倉衆」、「国人衆」、「大和衆」の五系統に分かれる。 家臣団 武蔵衆 「武蔵衆」 - 畠山重忠以前から仕えていた家柄で、重忠の死後、足利氏から入嗣した足利義純に仕えた家臣。代表的な氏:豊島氏、榛沢氏、半沢氏、本田氏。多くは早くに没落した。豊島氏は武蔵国の豊島氏と同族。本田氏は戦国時代には島津氏の家臣となっていた。 足利衆 「足利衆」 - 足利義純の畠山氏入嗣の際に従った家臣。代表的な氏:稲沢氏、斎藤氏、高階氏、伴氏、平(ひら)氏。斎藤氏、平氏は重臣、稲沢氏、伴氏は馬廻衆として残存。高階氏は没落した。高階氏は高氏と同系。足利衆は戦国時代になると当主側近として活躍した。斎藤氏や平氏は奉行職や祐筆として文書を発給し、畠山氏の行政官僚的存在となった。また、稲沢氏、伴氏は当主側近の平時の警護を職務とし、戦陣では馬廻衆となり、伝令や作戦参謀的な位置についたが、軍権が守護代に移ると実権を失い没落した。稲沢氏 - 足利氏の祖足利義康の父、源義国の弟源義忠の家系。子孫は豊臣氏重臣速水守久に客将として仕え、大坂夏の陣で陣没。 斎藤氏 - 斎藤実盛の末裔と伝えられた名門。美濃国の斎藤氏などは有名。畠山氏に仕えた斎藤氏は室町幕府の奉公衆であった斎藤氏と近い一族であったと考えられている。多くの発給文書が残存しており、その勢力が室町時代には強かったことが読み取れる。 平氏 - 読みは「ひら」であるが、平「たいら」氏の末裔。系統は不詳だが、鎌倉時代に内管領であった平氏の分流とする説が有力。室町時代から戦国時代中期まで畠山氏のなかで奉行などとして文書を発給し権勢があった。平盛知などが著名。 伴氏 - その祖は大伴氏(伴氏)といわれ古代の軍事貴族の末裔。大伴氏(伴氏)の末葉の伴助兼が源義家の家人となり、その一族が足利氏、畠山氏と歴代に仕えてきたものと考えられる。 鎌倉衆 「鎌倉衆」-「鎌倉以来」と称された畠山義純以降、畠山家国時代までに召抱えられた家臣。代表的な氏:佐原氏、庄氏、神保氏、中原氏、遊佐氏。遊佐氏、神保氏がそれぞれ河内、越中の守護代などとして重きを成した。遊佐氏 - 出羽国遊佐庄の出身。河内国の守護代として権勢を振るい、実質的には河内国の国主であった。長直、就盛、順盛、長教らの名が有名。 神保氏 - 越中守護代の神保氏の本家筋。大坂夏の陣で徳川方についたが味方の伊達政宗に攻撃された神保相茂はこの末裔。 中原氏 - 検非違使尉を世襲した中原氏の分流で紀伊国に土着した家柄で子孫は山林王と称された。 佐原氏 - 相模国の三浦氏の分流で蘆名氏と同族の名族。早くに没落したのか戦国時代の史料にはすでに見えない。 庄氏 - 武蔵七党児玉氏の分流。備中国の庄氏と同族。江戸時代の大名、本庄氏も同族。 国人衆 「国人衆」 - 室町時代になって伊豆国、紀伊国、河内国の国人から家臣団に編入された家臣で、多くは南朝方で畠山氏に降伏した者たちである。代表的な氏:安宅氏、色川氏、太田氏、恩智氏、甲斐庄氏、萱振氏、小山氏、誉田氏、周参見氏、鈴木氏、隅田氏、玉置氏、丹下氏、淡輪氏、野長瀬氏、堀内氏、水走氏、湊氏、三宅氏、保田氏、安見氏、湯浅氏、湯川氏、和田氏など。在地の勢力で実戦部隊を擁した。政権中央では湯川氏(湯川直光、湯川直春)が活躍した程度であったが、彼らの帰趨が畠山氏の没落を決定づけた。堀内氏は源行家の末裔ともいい、半独立した勢力で戦国大名としても数えられる。安宅氏 - 淡路国の安宅氏(安宅冬康など)の本家筋で同じく水軍を率い、畠山氏の水軍の中核であった。甲斐国の武田氏の末葉といわれる。 色川氏 - 元・南朝方。紀伊国の有力国人のひとつ。畠山氏が没落し豊臣秀長が領主となるとそれに仕えた。子孫は紀州藩の水野氏に仕えた。 太田氏 - 雑賀衆ともいわれた一族で、太田吉正が有名。 恩智氏 - 元・南朝方。鎌倉時代末期に活躍した恩智大栄の末裔。 甲斐庄氏 - 元・南朝方。楠木正成の弟、楠木正季の末裔。子孫は徳川氏に仕え旗本。 萱振氏 - 元・南朝方。萱振賢継が有名。大阪府八尾市に現在も萱振の地名が残る。賢継は遊佐長教を暗殺したとされ、安見宗房(直政)の報復を受けて族滅した。河内国一の富豪と称された。 小山氏 - 元南朝方。関東の雄族、小山氏の分流と称するが現在は否定されている。紀伊国の有力国人で平安時代後期から活動した古豪。 誉田氏 - 武蔵衆の本田氏と同族ともいうが詳細は不明。河内国の国人。誉田八幡宮ともゆかりが深い一族で、畠山氏の内部では国人衆ではあるが奉行職なども務めた家柄。応仁の乱などで畠山義就方であったため、戦国時代には勢力は弱体化した。 周参見氏 - 現在も和歌山県にその地名がある。その地域の有力国人であった。 鈴木氏…雑賀衆の中核。鈴木重秀や鈴木重朝が有名だが、畠山氏に仕えたのはそれらの父やその兄弟。久米田の戦いで三好実休を撃ったのも鈴木氏の軍勢といわれる。 隅田氏…隅田党ともいわれた武士団の末裔。隅田八幡宮にゆかりの武士団。鎌倉時代には隅田忠長が出て活躍したが、北条氏の被官であったために、建武の新政の際に多くの一族が戦死した。後に南朝方となったが、南朝滅亡後は、紀伊国守護の大内氏、続いて畠山氏に仕えた。子孫は紀州徳川氏に仕えた。 玉置氏…玉置庄司。鎌倉時代中期ころから台頭した紀伊国の武士団で十津川郷士。十津川玉置社の神主の末裔。子孫は尾張藩に仕えて続いた。 淡輪氏…元・南朝方。鎌倉時代中期ころから活動していた和泉国の国人。元は、和泉国守護の細川氏の配下。細川常有が滅ぶと、畠山氏に仕えた。淡輪水軍の中核。畠山氏の水軍の一翼を担った家柄。淡輪有重、淡輪重政らが有名で、畠山氏が没落すると豊臣秀吉、豊臣秀次に仕えたが、改易。後に、浅野氏や豊臣秀頼に仕えた。 野長瀬氏…元・南朝方。足利衆の稲沢氏の支流。南朝時代は勢力があったが、室町時代以降は振るわなかった。畠山氏の被官として命脈を残した名族。 堀内氏…元・南朝方歟?。源行家の末葉。堀内氏虎の時代に勢力を拡大し、守護の畠山氏が衰えると自立した。堀内氏善は羽柴秀吉に早くから仕えて領土を保全したが、関ヶ原の戦いで西軍に味方し没落した。大坂夏の陣で千姫の救出で有名な堀内氏久はこの一族で後に徳川氏に旗本として仕えた。 水走氏 - 平安時代後期に成立した武士団。河内国一ノ宮枚岡神社の神主出身の武士で、その祖は枚岡連という名族。平安時代後期から鎌倉時代には大きな勢力を誇ったが、南朝方であったことから畠山氏に仕えたころは勢力は衰えていたが、その本拠地は交通の要衝にあり、重要視された。 湊氏 - 淡輪水軍の淡輪氏の一族ともいわれ、湊高秀が有名。 三宅氏 - 摂津三宅氏とは別族。現在の大阪府松原市三宅にあった豪族で、松原市三宅にある屯倉神社は三宅氏居城跡ともいわれ、古代の屯倉に由来する古代からの有力豪族の末裔。 保田氏 - 源義光の末裔の安田氏と同族とされているが、湯浅氏の分流と見るのが妥当。紀伊国の有力国人で、保田知宗、保田繁宗、保田則宗らが有名。繁宗以降は徳川氏に仕えて旗本。 安見氏 - 元・南朝方。若狭国保見庄の荘官の出身。戦国時代後期に守護代となった安見直政(宗房)や安見信国、安見勝之の名が知られる。勝之は伊予国で大名となるが関ヶ原の戦いで西軍に味方し没落。加賀前田氏に仕えて、大坂冬の陣では敗色濃厚な中で善戦し一万四千石を与えられた。 湯浅氏 … 元・南朝方。紀伊国湯浅庄発祥の名族。平清盛の配下として勢力を拡大し、鎌倉幕府が成立すると巧みにその御家人となった。南北朝時代には楠木氏らとともに南朝を支えたが、衰退した。戦国時代にも衰退したとはいえ、もともと紀伊国最大とも言われた雄族だけに勢力を保持していた。 湯川氏 - 紀伊国の国人。戦国時代後期には湯川直光が河内守護代にもなった。熊野八庄司のひとつ。武田氏を祖とするというが異説がある。戦国時代後期に湯川氏は最盛期を迎え、実質的に畠山氏の軍事力の中核であった。畠山高政時代には、久米田や教興寺で三好長慶方と畠山氏が決戦しているが、その時点での軍勢の半数近くは湯川直光の軍勢であったといわれており、その軍事力の強大さがわかる。後、畠山氏が没落すると、湯川氏は反・豊臣的な行動があったが、後に豊臣秀長に降り、その臣下となり、浅野氏に仕えるなどし、浅野氏が広島へ転封になると、それに従い広島へ移った。 和田氏 - 祖は大中臣朝臣といわれる。鎌倉時代は御家人。読みは「にぎた」「にきた」「みぎた」などがある。元・南朝方で畠山氏にも仕えた。 大和衆 「大和衆」…上記以外に、主に応仁の乱以降に家臣となった大和国の国人衆出身の家臣。代表的な氏:秋山氏、飯田氏、岡氏、奥田氏、越智氏、片岡氏、沢氏、龍田氏、筒井氏、十市氏、豊田氏、箸尾氏、布施氏、芳野氏。大和国は元来、興福寺が君臨していたが、応仁の乱以降、畠山氏が有力国人を家臣団化していった。しかし、畠山氏が衰えると、国人の中でも有力であった筒井氏、越智氏の両氏が他氏を家臣団化して二頭体制になった。越智氏、筒井氏は戦国大名としても数えられ、特に筒井氏は筒井順慶の時代に飛躍したが、江戸時代初期に改易された。秋山氏 - 宇陀三将の一人。 越智氏 - 大和源氏の末葉といわれる。越智家栄の時代に台頭した。筒井氏と攻防を繰り返したが、筒井順慶の時代に滅ぼされた。高取城主。 片岡氏 - 利盛、道春が知られる。畠山氏の家督争いに巻き込まれた。越智氏と筒井氏の間を揺れ動いた小豪族。 沢氏 - 宇陀三将の一人。沢源六郎が有名。沢城城主。 龍田氏 - 龍田入道為定が有名。 筒井氏 - 筒井順慶が有名。 十市氏 - 元・南朝方。十市遠忠などが有名。後、筒井氏家臣。 箸尾氏 - 鎌倉時代前期からの豪族。箸尾為英らの活動が記録されている。為妙、為量は南朝方で北朝方の筒井氏と戦った記録がある。宗信(為隆)の時代に筒井氏と和睦し、南朝方から北朝方に転身した。1546年に箸尾為政が筒井氏によって自害に追い込まれ、一度滅亡の憂き目をみたが、1558年に箸尾為綱が復帰した。筒井氏が大和国主になると、箸尾氏も従属した。また、畠山氏直参になった箸尾高春もこの一族で、高春は関ヶ原の戦いで西軍。後、大坂の陣で大坂方で戦没した。 芳野氏 - 宇陀三将の一人。
※この「家臣団」の解説は、「畠山氏」の解説の一部です。
「家臣団」を含む「畠山氏」の記事については、「畠山氏」の概要を参照ください。
- 家臣団のページへのリンク