おおさか‐なつのじん〔おほさかなつのヂン〕【大坂夏の陣】
大坂夏の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:25 UTC 版)
和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。大坂方が和議の条件を履行しなかったため、幕府は自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。大坂方はこれに抗議するが、幕府は本丸を残し堀を埋め尽くした。 従来は、堀を埋めたことと城郭の一部の破壊については、外周の外堀だけを埋める約束であったものを、幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てるという卑劣な手段を使ったとされてきた。この逸話は後代に記された書物にしか記されておらず、当時の第一次史料の中には確認できないものである。さらに、この工事に関係した伊達政宗、細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事をめぐり、大坂方との間で何らかの揉めごとが発生しているような形跡を認めることができないことから「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平する」という件は、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであったと言える。 慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替(大坂城退去)を拒否し、堀を掘り返し始めた。このため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発する。 大野治房が軍勢を率い大和郡山に出撃し、制圧・略奪して帰還する。大坂方は阪南から北上してくる幕府の軍を、数で劣る自軍でも撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、主力軍が八尾方面に進軍。八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させた。ただ奮戦した木村重成・後藤基次が討ち死に、撤退を余儀なくされる。また紀州の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく大野治房らが出撃するも、樫井の戦いで先陣の塙直之が浅野軍に破れ、本隊が到着した時には浅野勢は紀州に撤退済みだったことにより帰城。 敗戦続きで兵力が疲弊した大坂方は、家康・秀忠父子が大坂に布陣したところに決戦を挑む。天王寺・岡山の戦いである。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが、実現しなかった。 岡山口方面では大野治房率いる軍勢が秀忠の本陣まで迫るが、態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退を余儀なくされる。天王寺方面には真田信繁・毛利勝永らが布陣。信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方双方から称賛されるほどの攻勢をかけ、家康の本陣に近づいて数度にわたる突撃を敢行した。一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、ついに及ばず、信繁は退却中に討ち死に。他の大坂方の部隊も次々と壊滅していった。
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