滝川正利とは? わかりやすく解説

滝川正利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 07:14 UTC 版)

 
滝川 正利
時代 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 寛永2年11月7日1625年12月6日
改名 羽柴正利、滝川正利
別名 通称:帯刀、勘右衛門[注釈 1]
戒名 周桃
墓所 泰寧寺茨城県石岡市根小屋)
官位 従五位下壱岐
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
常陸片野藩
氏族 羽柴氏滝川氏
父母 父:滝川雄利
兄弟 龍光院、正利
養兄弟:鳥居忠政正室生駒家長娘)
正室:青山忠俊
滝川利貞正室
養子:利貞
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滝川 正利(たきがわ まさとし)は、江戸時代前期の大名常陸国片野藩藩の第2代藩主。晩年に所領の大半を返上し、旗本となった[6]

生涯

天正18年(1590年)、のちに初代片野藩主となる滝川雄利の長男として父の居城・伊勢国神戸城で生まれる。関ヶ原の戦いで西軍について失領した父が徳川家康に召しだされて片野2万石を与えられると、徳川家に仕えるようになった。慶長10年(1605年)、16歳のとき2代将軍徳川秀忠の上洛に供奉し、従五位下・壱岐守に叙せられた[5][1][注釈 2]。父の雄利は豊臣秀吉から羽柴の苗字を与えられて羽柴下総守を称しており、正利も羽柴を苗字として羽柴壱岐守を称した[10]

慶長15年(1610年)、父の死去により21歳で跡を継ぐ。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣に出陣し、首3級を獲る武功を挙げた[5][注釈 3]。また、この頃、将軍の命により羽柴の苗字を改め、父が以前名乗っていた滝川に復姓した[15][注釈 4]

しかし生来から病弱[注釈 5]で出仕に支障を来たすようになり[15]寛永2年(1625年)、嗣子がなく、幕府の公務に耐えられないという理由から所領の返上を願い出て、所領2万石のうち1万8000石を幕府に収公の上、常陸新治郡片野2000石を安堵されて旗本となった[注釈 6]。同年11月7日、死去。享年36[5]

家督は摂津国高槻藩初代藩主・土岐定義の次男・利貞末期養子として継ぎ、正利の娘を娶って婿となった。利貞と正利の娘との間の子、利錦御側衆に昇進、加増され子孫は4000石の旗本として存続した[5]。なお、幕末に大目付になり、鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いた滝川具挙はこの家の別家(利錦の弟具章が分家)1200石の当主で、正利の子孫にあたる[20]

脚注

注釈

  1. ^ 寛永18年(1643年)に編纂された『寛永諸家系図伝』では通称は「帯刀」のみ[1]。通称「勘右衛門」は『寛永系図』と同時期に成立した軍記物の『勢州軍記』に見え[2]元禄15年(1702年)に成立した新井白石の『藩翰譜』でも用いられている[3]。寛政10年(1798年)に滝川家から幕府に提出された家譜[4]に基づいた『寛政重修諸家譜』は正利の通称は「帯刀」と「勘右衛門」の二つであるとした[5]
  2. ^ 幕府の歴史書である『本朝通鑑[7]や『徳川実紀[8]に秀忠の将軍職就任の参内の際の供奉として羽柴壱岐守の名前が見える。『寛永諸家系図伝』および『寛政重修諸家譜』はこの際に壱岐守に叙任されたとするが、年未詳の「羽柴壱岐守」あて豊臣秀吉朱印状一通が現存しており[9]黒田基樹は秀吉の没する慶長3年(1598年)以前に正利が壱岐守に叙任されていたと指摘している[10]。一次史料では慶長17年(1612年)の文書で「羽柴壱岐守正利」と署名したものがある[11]
  3. ^ 『寛永諸家系図伝』では正利が大坂夏の陣に出陣した記録はなく[1]、『勢州軍記』は滝川雄利の子の羽柴勘右衛門尉が大坂の陣で高名を挙げたと伝える[2]。羽柴勘右衛門は大坂夏の陣で多数の首級を挙げた武将であるが[12]、大坂の陣での振る舞いに勘気を受けて改易され、徳川秀忠没後の寛永9年(1632年)になって天海の取りなしで子息が赦免されている[13]。新井白石が『藩翰譜』で羽柴勘右衛門を正利と同一視し[3]、滝川家も寛政年間に提出した家譜で勘右衛門の武功を正利の事績とし[4]、『寛政重修諸家譜』にも書き加えられている[5]。現代の歴史学者でも村川浩平は大坂夏の陣の羽柴勘右衛門を正利に比定する[14]。ただし、正利は遅くとも慶長17年(1612年)に壱岐守を称しており[11]、大坂夏の陣が起こった慶長20年(1615年)まで受領名の壱岐守を格下の官途名に改めたとすれば異例の逆行現象である。黒田基樹は慶長18年(1613年)の蜂須賀至鎮書状案に見える「羽勘右」が羽柴勘右衛門尉の略記であると指摘し、正利がこの年に名乗りを羽柴勘右衛門尉に改めたとする[10]
  4. ^ 正利死後の寛永9年(1632年)頃に作成されたとされる『武州豊嶋郡江戸庄図』(寛永江戸図)ではまだ「羽柴壱岐」と表記されている[16]
  5. ^ 曲直瀬玄朔の診察記録『医学天正記』に時期未詳の「滝川壱岐守」の症例が2件掲載されている。一件は「衂血」で、鼻出血が止まらないというもの[17]。もう一件は「癲癇」で、過度の飲酒をしていたところ突然人事不省に陥り、脈拍が低下したというもの。玄朔の治療で息を吹き返したが、高熱を出してうわごとを言い、大量の汗を流したと記録されている[18]
  6. ^ 荻生徂徠の『蘐園遺編』によれば失明して上方に蟄居したという[19]

出典

  1. ^ a b c 『寛永諸家系図伝. 第12』続群書類従完成会、1988年、p. 224.
  2. ^ a b 「勢州軍記」巻下(『続群書類従 第21輯ノ上 合戦部』続群書類従完成、1923年、p. 39.
  3. ^ a b 『藩翰譜』巻12下、吉川半七、1896年.
  4. ^ a b 『諸家系譜』「滝川・滝・滝野・滝村・立花」
  5. ^ a b c d e f 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、p. 424.
  6. ^ 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典. 第2巻』新人物往来社、1986年、p. 43.
  7. ^ 『本朝通鑑』巻81、大槻東陽、1875年.
  8. ^ 「台徳院殿御実紀」巻1. 慶長10年4月26日条(『徳川実紀. 第壹編』経済雑誌社、1904年、p. 373.
  9. ^ 『香川県史. 第8巻. 資料編 古代・中世史料』香川県、1986年、p. 163.
  10. ^ a b c 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、p. 150-153.
  11. ^ a b 佐久間安正等五十名連署請文(『大日本史料 第十二編之九』p. 295.
  12. ^ 「駿府政事録」巻4(『大日本史料 第十二編之十九』p. 26.
  13. ^ 「大猷院殿御実紀」巻20. 寛永9年7月17日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社、1904年、pp. 250-251.
  14. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』第49巻、駒沢史学会、1996年、p. 74.
  15. ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻5. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社、1904年、p. 56.
  16. ^ 山田淸作編『寛永江戸圖』米山堂、1930年.
  17. ^ 「医学天正記」坤. 衂血条(『史籍集覧 26 改定』近藤出版部、1907年、p. 512.
  18. ^ 「医学天正記」坤. 癲癇条(『史籍集覧 26 改定』近藤出版部、1907年、p. 516.
  19. ^ 「蘐園遺編」巻13(『荻生徂徠全集』第18巻、みすず書房、1983年、p. 503.
  20. ^ 野澤日出夫「瀧川一益の末裔」『日本姓氏家系総覧』新人物往来社、1991年、pp. 258-261.



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