鳥羽・伏見の戦いとは? わかりやすく解説

鳥羽伏見の戦い


とばふしみ‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【鳥羽伏見の戦い】

読み方:とばふしみのたたかい

戊辰(ぼしん)戦争の発端となった内乱慶応4年18681月大坂在城の幕兵および会津桑名の藩兵が、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を擁して鳥羽伏見薩長軍と戦ったが、幕府軍敗退し慶喜江戸帰った


鳥羽・伏見の戦い (とば・ふしみのたたかい)

1868年江戸幕府の兵が薩摩[さつま]・長州ちょうしゅう]の兵をうつため、大阪から京都入ろうとして、鳥羽[とば]と伏見[ふしみ]で起こった戦いです。結果は、江戸幕府軍の大敗でした。


鳥羽・伏見の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/13 02:10 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日1868年1月27日〉- 1月6日1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。




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鳥羽・伏見の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:12 UTC 版)

山内容堂」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

慶応4年1868年1月3日旧幕府側の発砲で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、藩兵にはこれに加わるなと厳命した[要出典]。しかし、在京土佐藩兵らは、容堂の制止振り切り、薩土密約基づいて自発的に官軍に就いて戦闘参加した[要出典]。同1月7日西郷から「討幕合戦近し」という密書受け取り、さらに開戦したことを土佐在国中に谷干城から報告受けた乾退助は、薩土密約基づいて迅衝隊率いて上洛した[要出典]。容堂は、京都進発する前夜2月13日東山道出発する率い土佐迅衝隊に、寒いので自愛するよう言与えた[要出典]。

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鳥羽・伏見の戦い

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甲州勝沼の戦い」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

この薩土密約に基づき1867年慶応3年12月28日京都にいる西郷隆盛から土佐乾退助あてに、「討幕開戦近し」との伝令出された。その予想どおり明けて1868年慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する1月4日土佐藩山田平左衛門吉松速之助山地元治北村長兵衛二川元助らの部隊が「薩土討幕の密約に基づき参戦その後錦の御旗翻る。同1月6日京都から谷干城早馬土佐到着し京都において武力討幕戦が開始されたことを土佐藩庁に報告した大政奉還成って以降武闘派棟梁警戒されて、藩軍の大司令(陸軍大将)の職を解かれ、さらにその他総て役職を被免され失脚していた乾退助は、即日失脚解かれ藩軍の大司令に復職した。同1月6日乾退助は、谷干城報告受けて薩土討幕の密約履行すべく、土佐勤王党流れをくむ隊士や、勤皇の志を持った諸士からなる迅衝隊土佐編成。さらに翌1月7日朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断下った

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鳥羽・伏見の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:56 UTC 版)

江原素六」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

慶応3年1867年10月14日徳川慶喜大政奉還宣言すると、京都・大坂の幕臣大きく動揺する。素六もその騒動の中で指揮当たっていたが、江戸に戻るよう命令下った兵乱を防ぐため京都残留願い出て隊を離れた素六は、単身伏見回って大坂向かった大坂に向かう途中道端中にナポレオン3世から幕府贈られ大砲2門が置き去りになっていた。捨て置け幕府不名誉となると考えた素六は、江戸っ子人夫たちに淀まで引くことを依頼して大砲大坂まで運ばせたという。 慶応4年1858年1月3日の鳥羽・伏見の戦いは、薩摩側の天皇から預かった錦旗」が効果発揮し徳川側は手出しできず総退却し大阪引き上げた。この戦いの中、素六は敵からの防衛のため、若手の兵を借りることを肥後守申し出て砲兵一大隊と歩兵一中隊を与えられた。素六は、大坂市街戦場にせず、幕府の兵が無事に江戸へ退き徳川慶喜安全に大坂立ち去れるよう兵を率いて淀川沿った守口で陣を構えた。しかし、徳川慶喜脱出ルートとして海路使い和歌山抜けたため、素六は部下の不満をなだめながら大坂へと向かったが、大坂城内は撤収騒ぎ混乱しており、更に堺方面逃れた。その堺でも街中発砲を受けながら、素六は部下動揺与えず紀州へと逃れた紀州では、空腹のため民家食料分けてもらい、まずは兵士に食を与え最後に自分分の食料を買いに行かせた。米を炊いている最中、素六は疲れから熟睡してしまい、旅費として支給されていた200両を盗まれてしまったが、当惑素振り見せないよう、行軍指揮者として知恵働かせ、兵を乗せるため千石船一隻借り受け和歌山沖より江戸向かって出帆した江戸へ向かう途中幕府軍艦順動丸出会い、これに乗り換えて品川着いた

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鳥羽・伏見の戦い

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中岡慎太郎」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

鳥羽・伏見の戦いが始まると、山内容堂在京土佐藩兵に「此度戦闘薩摩長州会津桑名私闘であると解するゆえ、何分沙汰ある迄は、此度戦闘手出しすることを厳禁す」と告ぐが、土佐藩兵は薩土密約に基づき独断戦闘参加し慶応4年1月7日(1868年1月31日)、徳川慶喜が「朝敵」として討伐の勅が下るや、翌1月8日(太陽暦2月1日)には乾の謹慎解かれ1月9日(太陽暦2月2日)、迅衝隊大司令に任ぜられる。同1月13日(太陽暦2月6日)土佐出陣し高松藩伊予松山藩帰順させて上洛を果たす。京都到着した乾の率い迅衝隊は、先の伏見戦いで土佐藩士参戦者と合流し、隊の編成組み直し、乾が総督兼任して戊辰戦争東征の途についた土佐藩初戦より戊辰戦争参戦し錦の御旗下され戦争勝利を収めその後国会開設などを含めた近代日本国家形成する契機作ったのは、ひとえに中岡慎太郎盡力よるものである。

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鳥羽・伏見の戦い

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松平容保」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

慶応3年1867年2月12日、容保は辞表提出するこの頃会津藩士たちの幕府への怒り怫然として高まる。「いったい幕府先帝叡旨奉行することもできず、軍職ありながら武力発揚もできず、尽言進めて採用もしない。わが公に大政参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた天恩万分の一報い宗家への義務尽くした藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土帰る、今が時期である」との気運怫然とした。容保は重臣集め、「国に帰ろうと言い重臣らは一人異議なかった。しかし京都所司代松平定敬老中板倉勝静らからは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。2月13日幕府より「将軍家代わり長の解兵を奏上せよ」と命じられるが、容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退する4月8日幕府書面にて賜暇申請する。「昨年国元大火にて城下過半焼失し加えて非常の凶作にて四民飢餓離散の程、千万心配仕り候。止むをえざる都合御察し御許容なされ候よう相願い候」しかし帰国の件は何かと引き伸ばされ、やがて政変際し実現せずに終わる。 4月23日朝廷より勅を賜り参議就任する。この勅は元治元年2月一度辞退しているが、勅には「先帝叡慮尊奉永々守護職掌を相励み、その功少なからず」とあり、また「再度の推任であるから固辞許さない」とあり、重臣たちからも「先帝叡慮云々とあり、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」として5月2日にこれを受けた10月15代将軍・徳川慶喜より大政奉還意中聞き、容保はその英断賞揚する。10月14日慶喜大政奉還上表江戸幕府消滅する。同じ日には「会津宰相速やかに誅戮加えよ」と命ず勅書討幕の密勅)も出されていた。12月8日朝議にて長州藩の罪が許され毛利家官位復旧する12月9日王政復古詔勅が下る。この勅をもって守護職京都所司代廃止され帰国命じられた。蛤御門守衛解かれ土佐藩替わった朝廷から幕府へは「大政奉還至誠嘉賞天下と共に同心して皇国維持するように」とあったが、会津など幕府側は政権からは疎外され朝議があっても参加させず、実権握った諸藩士や過激の徒は公卿誘惑して会津仇敵視した。会津藩士たちは憤慨し「君辱しめらるれば臣死す、という言葉があるが今がその時である」と一触即発気勢見せたため、容保は家臣をなだめ諭した。しかし長州兵が入京するにおよび、会津藩士の憤慨は度を高めた慶喜は容保、松平定敬従え二条城より大阪城へ移る。 慶応4年1868年1月3日慶喜大坂出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する旧幕府軍が敗北する1月6日大坂退いていた慶喜戦線から離脱し夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命により、これに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)であるが、容保にとっては大切な家臣たちを戦場残し逃げる形となってしまう。家臣誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の開陽丸に連れられたという。 2月4日、容保は大坂脱出責任を取るため藩主辞任し家督養子である喜徳慶喜実弟)に譲る。2月15日、容保は藩兵全員江戸和田邸内集め鳥羽伏見戦争における奮戦慰労同時に自身大坂城脱出大い恥じて謝罪会津回復したい藩士励ました2月16日会津桑名朝敵とする勅命下り慶喜より江戸城登城禁止江戸追放言い渡される。容保は江戸発し会津へ向かう。江戸詰め藩士婦女子も、会津人間のほとんどが江戸を後にした。2月22日会津到着する。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津武装防衛降伏嘆願の2方向へ動く。 3月奥羽鎮撫総督九条道孝参謀世良修蔵とともに東北諸藩に対して会津庄内征討命じる。4月、容保は仙台米沢庄内各藩通じて降伏嘆願書提出する。しかし世良はこれをしりぞける会津同情的な奥州各藩からも嘆願書出されるしりぞけられ、逆に各藩会津征討迫られた。横暴な態度目立ち奥羽反感を買った世良は、仙台藩士に襲われ殺害される戦争不可避となった

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鳥羽・伏見の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 20:58 UTC 版)

新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説

詳細は「鳥羽・伏見の戦い」を参照 鳥羽・伏見の戦いとは、1868年1月3日から6日まで、長州薩摩官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦いの事である。

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