鳥羽伏見の戦い
とばふしみ‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【鳥羽伏見の戦い】
鳥羽・伏見の戦い (とば・ふしみのたたかい)
鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦い
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慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、藩兵にはこれに加わるなと厳命した[要出典]。しかし、在京の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加した[要出典]。同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを土佐在国中に谷干城から報告を受けた乾退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した[要出典]。容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する乾率いる土佐迅衝隊に、寒いので自愛するよう言葉を与えた[要出典]。
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鳥羽・伏見の戦い
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この薩土密約に基づき、1867年(慶応3年)12月28日、京都にいる西郷隆盛から土佐の乾退助あてに、「討幕の開戦近し」との伝令が出された。その予想どおり、明けて1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。1月4日、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助、山地元治、北村長兵衛、二川元助らの部隊が「薩土討幕の密約」に基づき参戦。その後、錦の御旗が翻る。同1月6日、京都から谷干城が早馬で土佐に到着し、京都において武力討幕戦が開始されたことを土佐藩庁に報告した。大政奉還が成って以降、武闘派の棟梁と警戒されて、藩軍の大司令(陸軍大将)の職を解かれ、さらにその他総ての役職を被免され失脚していた乾退助は、即日、失脚を解かれ藩軍の大司令に復職した。同1月6日、乾退助は、谷干城の報告を受けて、薩土討幕の密約を履行すべく、土佐勤王党の流れをくむ隊士や、勤皇の志を持った諸士からなる迅衝隊を土佐で編成。さらに翌1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断が下った。
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鳥羽・伏見の戦い
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慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を宣言すると、京都・大坂の幕臣は大きく動揺する。素六もその騒動の中で指揮に当たっていたが、江戸に戻るよう命令が下った。兵乱を防ぐため京都残留を願い出て隊を離れた素六は、単身伏見を回って大坂に向かった。大坂に向かう途中、道端の林の中にナポレオン3世から幕府へ贈られた大砲2門が置き去りになっていた。捨て置けば幕府の不名誉となると考えた素六は、江戸っ子の人夫たちに淀まで引くことを依頼して大砲を大坂まで運ばせたという。 慶応4年(1858年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いは、薩摩側の天皇から預かった「錦旗」が効果を発揮し、徳川側は手出しできず総退却し、大阪を引き上げた。この戦いの中、素六は敵からの防衛のため、若手の兵を借りることを肥後守に申し出て、砲兵一大隊と歩兵一中隊を与えられた。素六は、大坂市街を戦場にせず、幕府の兵が無事に江戸へ退き、徳川慶喜が安全に大坂を立ち去れるよう兵を率いて淀川に沿った守口で陣を構えた。しかし、徳川慶喜は脱出ルートとして海路を使い和歌山に抜けたため、素六は部下の不満をなだめながら大坂へと向かったが、大坂城内は撤収騒ぎで混乱しており、更に堺方面に逃れた。その堺でも街中で発砲を受けながら、素六は部下に動揺も与えず紀州へと逃れた。紀州では、空腹のため民家に食料を分けてもらい、まずは兵士に食を与え、最後に自分の分の食料を買いに行かせた。米を炊いている最中、素六は疲れから熟睡してしまい、旅費として支給されていた200両を盗まれてしまったが、当惑の素振りを見せないよう、行軍の指揮者として知恵を働かせ、兵を乗せるため千石船一隻を借り受け、和歌山沖より江戸に向かって出帆した。江戸へ向かう途中、幕府の軍艦順動丸に出会い、これに乗り換えて品川へ着いた。
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鳥羽・伏見の戦い
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鳥羽・伏見の戦いが始まると、山内容堂は在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す」と告ぐが、土佐藩兵は薩土密約に基づき独断で戦闘に参加し、慶応4年1月7日(1868年1月31日)、徳川慶喜が「朝敵」として討伐の勅が下るや、翌1月8日(太陽暦2月1日)には乾の謹慎が解かれ、1月9日(太陽暦2月2日)、迅衝隊の大司令に任ぜられる。同1月13日(太陽暦2月6日)土佐を出陣し、高松藩、伊予松山藩を帰順させて上洛を果たす。京都に到着した乾の率いる迅衝隊は、先の伏見の戦いでの土佐藩士の参戦者と合流し、隊の編成を組み直し、乾が総督を兼任して、戊辰戦争で東征の途についた。 土佐藩が初戦より戊辰戦争に参戦し、錦の御旗を下され、戦争で勝利を収め、その後の国会開設などを含めた近代日本国家を形成する契機を作ったのは、ひとえに中岡慎太郎の盡力によるものである。
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鳥羽・伏見の戦い
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慶応3年(1867年)2月12日、容保は辞表を提出する。この頃、会津藩士たちの幕府への怒りは怫然として高まる。「いったい幕府は先帝の叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力の発揚もできず、尽言を進めても採用もしない。わが公に大政に参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた。天恩の万分の一は報い宗家への義務も尽くした。藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土に帰る、今が時期である」との気運が怫然とした。容保は重臣を集め、「国に帰ろう」と言い、重臣らは一人も異議なかった。しかし京都所司代松平定敬、老中板倉勝静らからは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。2月13日、幕府より「将軍家に代わり征長の解兵を奏上せよ」と命じられるが、容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退する。 4月8日、幕府へ書面にて賜暇を申請する。「昨年国元大火にて城下の過半焼失し、加えて非常の凶作にて四民飢餓離散の程、千万心配仕り候。止むをえざる都合、御察し御許容なされ候よう相願い候」しかし帰国の件は何かと引き伸ばされ、やがて政変に際し実現せずに終わる。 4月23日、朝廷より勅を賜り参議に就任する。この勅は元治元年2月に一度辞退しているが、勅には「先帝の叡慮を尊奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず」とあり、また「再度の推任であるから固辞は許さない」とあり、重臣たちからも「先帝の叡慮云々とあり、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」として5月2日にこれを受けた。 10月、15代将軍・徳川慶喜より大政奉還の意中を聞き、容保はその英断を賞揚する。10月14日、慶喜が大政奉還を上表、江戸幕府が消滅する。同じ日には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書(討幕の密勅)も出されていた。12月8日、朝議にて長州藩の罪が許され、毛利家の官位が復旧する。 12月9日、王政復古の詔勅が下る。この勅をもって守護職と京都所司代は廃止され、帰国が命じられた。蛤御門の守衛も解かれ、土佐藩が替わった。朝廷から幕府へは「大政奉還の至誠を嘉賞し天下と共に同心して皇国を維持するように」とあったが、会津など幕府側は政権からは疎外され、朝議があっても参加させず、実権を握った諸藩士や過激の徒は公卿を誘惑して会津を仇敵視した。会津藩士たちは憤慨し「君辱しめらるれば臣死す、という言葉があるが今がその時である」と一触即発の気勢を見せたため、容保は家臣をなだめ諭した。しかし長州兵が入京するにおよび、会津藩士の憤慨は度を高めた。慶喜は容保、松平定敬を従え、二条城より大阪城へ移る。 慶応4年(1868年)1月3日、慶喜が大坂を出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。旧幕府軍が敗北する。 1月6日、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し、夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命により、これに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)であるが、容保にとっては大切な家臣たちを戦場に残し逃げる形となってしまう。家臣の誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の開陽丸に連れられたという。 2月4日、容保は大坂脱出の責任を取るため藩主を辞任し、家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲る。2月15日、容保は藩兵全員を江戸の和田倉邸内に集め、鳥羽伏見戦争における奮戦を慰労、同時に自身の大坂城脱出を大いに恥じて謝罪、会津を回復したいと藩士を励ました。 2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し、会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も、会津の人間のほとんどが江戸を後にした。2月22日、会津に到着する。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の2方向へ動く。 3月、奥羽鎮撫総督九条道孝は参謀世良修蔵らとともに、東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じる。4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出する。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られた。横暴な態度が目立ち、奥羽の反感を買った世良は、仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不可避となった。
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鳥羽・伏見の戦い
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「新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説
詳細は「鳥羽・伏見の戦い」を参照 鳥羽・伏見の戦いとは、1868年1月3日から6日まで、長州や薩摩の官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦いの事である。
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