鳥羽伏見の戦い
とばふしみ‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【鳥羽伏見の戦い】
鳥羽・伏見の戦い (とば・ふしみのたたかい)
鳥羽・伏見の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/14 02:03 UTC 版)
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。
- ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。
- ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
- ^ 「予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。如何となれば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とでも同様なり。さりとて諸藩士にてはまた治まるべしとも思われず、これが予の苦心のあるところなりしが、要するに、朝幕ともに有力者は下にありて上になければ、その下にある有力者の説によりて、百事公論に決せば可ならんとは思いしかど、その方法に至りては何等の定見なかりしなり。松平容堂(山内容堂)の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを見て、これはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思い、これに勇気と自信とを得て、遂にこれを断行するに至りたり。」[21]
- ^ 1862(文久2)年、水戸学者・会沢安は『時務策』を徳川慶喜へ献上。日本と欧米諸国の武力差などから即時の攘夷戦争は不可能とみて、もっぱら富国強兵をめざし、諸外国と友好関係のもと開国貿易をおこなうべきことを勧めていた[22]。日本大百科全書(ニッポニカ)「会沢正志斎」コトバンク、2021年10月8日閲覧。
- ^ 1911(明治44)年6月14日、日本史学者・井野辺茂雄が東京・兜町事務所にて、「次を伺います。大政を御奉還になりました時に、その後の御処分はいかが遊ばさるべきお考えでございましたろうか。将来における徳川家のお立場についてのその時の御決心を伺いとうございます。」と徳川慶喜へ問いかけたことへの、慶喜からの答え。[26]
- ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
- ^ なお多田好間・編『岩倉公実記』では岩倉具視側の記述として大久保利通より先に岩倉が発言したとされ、その発言内容に続く山内容堂の反応など細部が異なっているが、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(2007年)によれば、他の一次史料など同時期の関連史料に共通してみられない『岩倉公実記』での岩倉発言・逸話は、天皇や岩倉の権威を高める目的で岩倉側によっておこなわれた後世の創作とする。
- ^ 禁門の変の当時、慶喜は母(吉子女王)方の実家・主家にあたる天皇家の暮らしていた御所警備隊長(のちの皇宮警察長官にあたる)、禁裏御守衛総督だった。[61]
- ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼の夕などは二條城に於きまして、今 丸太町通で薩藩を會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其夜になつて慶喜公が出立となりました、それを會藩が 慶喜公御下坂とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです、」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる[73]。
- ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第14、「政権御奉還後旧幕府にて外交事務を取り扱いし事」271頁で、慶喜は、当時、徳川宗家側が天皇家側に代わって一時的に外国公使らとの外交を行った理由を以下のよう説明している。 1.直接外交をおこなってきていない天皇家側に外国公使接受の準備が整っておらず、一時の処置として、以前通り徳川宗家が続けるしかなかった。2.天皇家側の摂政・二条斉敬から内々に、天皇家側でいますぐは外国公使らを応接できないので、気の毒だが従前どおり徳川宗家に頼むとの依頼があった。これら2つの理由で、以前から公式政府として外国公使らと外交接受を続けてきた徳川宗家側が、天皇家側の準備が整うまで、一時的に外国事務を続けている必要があった。
- ^ 「この頃松平豊前守(正質、後に大河内氏を称す)は外国公使に向かいて、徳川家は朝廷の御委任により以前外交の事を掌る旨通告し、御委任状をも作りて示したりという。」[61]
- ^ 当時の徳川慶喜は政治家としてすでに同様の事務手続きの手違いである「条約勅許問題」で政争に巻き込まれた経験がある事に注意。コトバンク「条約勅許問題」、2021年10月8日閲覧。
- ^ (豊前守・松平信義から徳川宗家の一大事と、フランス公使ロッシュへの外交権委任状提出を勧められるも)「予は固く執りて許さざりしかば」[82]
- ^ 「豊前守はやむをえずして、上に述ぶるがごとく密かに御委任状を作りて外人に示したるものなるべし。」[82]
- ^ 「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。」[89]
- ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第5で、慶喜は『討薩表』について、自らが出したものではなく、激昂する藩屏が書いたものを自分も見たようではあったが仕方なしにうっちゃらかして置いて、旗本・竹中重固が相手方へ持って行った、と語っている。なお、当時、慶喜は風邪をひいており、大阪城から一歩もでず寝巻のまま布団の中にいた[90]。
- ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第5で、慶喜は『討薩表』について、自らが出したものではなく、激昂する藩屏が書いたものを自分も見たようではあったが仕方なしにうっちゃらかして置いて、竹中重固が相手方へ持って行った、と語っている。原文:「いや、軍令状を出したというようなわけじゃない」「軍令状も何もない。無茶苦茶だ」「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。軽装で行くなら残らず行けという勢いで、そこでなお上京しろという命令があったから、それを幸い、先供(さきども)でござると言って出て来た。」「(討薩表について)それは確か見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない……。とうてい仕方がないので、実は打棄(うっちゃ)らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中(竹中重固)が持って行ったということだ。」「書面などは後の話で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方(どっち)も早く始めりゃあよい。始めりゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない。此方も機会がないといったようなわけで、両方真赤になって逆上(のぼ)せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。」
- ^ 「予もさらば軽装をもって入京せんと考えたりしかど、会桑両藩以下旗本の者等これを聴かず、「好機会なれば十分兵力を有して入京し、君側を清むべし」と主張し」[87]
- ^ 「因りて予は、「このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂にはいたずらに朝敵の汚名を蒙るのみなれば、決して我より戦を挑むことなかれ」と(板倉勝静によって繰り返される討薩の出兵要請を)制止したり。」[87]
- ^ 「この際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも」[87]
- ^ 「この際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては実にせんすべも尽き果て、形のごとき結果に立ち至りしなり。」[87]
- ^ No. 17. legation of United States in Japan Osaka, Jan'y 28th, 1868. Gentlemen, I have this moment received Your Excellencies Communication of last night, asking me to take such measures as may be necessary to preserve neutrality upon the part of citizens of the United States. In order that I may be correct in any notice that I may deem proper to issue to my countrymen, it will be necessary for me to be informed, "With whom is the Japanese Government now engaged in war?" "Is Matsudaira Shurino Daibu the only person in arms against the Government, or has he allies and confederates?" I also desire to say to my countrymen ( if such be the fact) that the Japanese Government has not only the disposition and ability to protect them and their rights under the Treaty, in Japan, but that it will do so. Will Your Excellencies give to me information upon these points to-day, as I desire if possible, to leave fro Yedo to-morrow. With Respect & Esteem R. B. VAN VALKENBURGH Minister Resident of the U. S. in Japan. Their Excellencies Sakai Wuta no Kami Itakura Iga no Kami Matsudaira Buzen no Kami etc. etc. etc. etc.[92]
- ^ 『幕府ト戦フ者は薩摩藩ノミナル旨並ニ外国人ノ保護方手配セル旨通知ノ件』御書状致被見候然者當今我国内変有之不得巳兵力を用ひ候場合ニ至り候に付貴国人民おゐて総て関係不被致候様貴様より御布告有之度段御頼申候處賊徒之名前等委敷御承知被成度旨云々御申越之趣委細承知いたし候昨今我政府おゐて討伐を加え候不臣之ものハ全く松平修理大夫一藩のミニ有之候乍併若以後同藩に黨與いたし候者有之候節は共ニ誅戮いたし候積ニ付其節は名前等委敷可申進候尤右徒黨之もの何處へ潜伏いたし非謀を巧候哉も難計候間條約済外国人を保護致し候法方は夫々厳重に手配いたし置候間其段は御安意有之候様存候附而は全く鎮静致し候迄は可成丈遠行等無之様御心附頼入候右御報可得御意如此御座候以上 正月四日 板倉伊賀守 花押 酒井雅楽頭 花押 アルビワンワンケルボルグ閣下[94]
- ^ 当時の淀本宮(淀姫社、與杼神社)は淀小橋の西の桂川の対岸(現在の京都市伏見区淀水垂町)にあった[96]。
- ^ 「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。」[89]
- ^ 渋沢栄一・編『徳川慶喜公伝』「4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守」で、慶喜は一連の天皇家(吉子女王の子である慶喜にとって、母方の主家)への恭順行動理由を、伊藤博文と渋沢栄一の両名へ、「実家である水戸徳川家での普段の教えだけでなく、父・烈公(徳川斉昭)からはたちの頃、庭で威儀を正して教えられた、義公(徳川光圀)以来わが家代々の尊王の大義を守っただけ」と語っている。[69]
- ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第14「大阪城御引上げの時の事」で、慶喜は「予(自分)は激昂する会津藩・桑名藩の兵士らへ刺殺される覚悟で帰国を命じ、天皇家に呼ばれた御所へ参内して新たな朝命を受け、『今は一己の平大名として朝廷に粉骨砕身つかまつる』と言えばよかったと、両藩兵の暴発を抑えきれず後悔している中、神保修理の東帰による善後策の勧めに、永井尚志や板倉勝静も同意していた。予(自分)が大広間に出て様子をみるたび予の出馬を迫る藩兵へ『ならば今から打ち立つ。皆おのおの用意をせよ』と命じ、一同が喜び踊って持ち場に向かって退いた隙に、永井尚志・松平容保・松平定敬ら4、5人を従えて密かに大阪城の後門から抜け出た」と大阪城撤退時の自身の心理と詳細な状況を回顧している。[82]
- ^ 『徳川慶喜公伝』が引用する『静寛院宮手記』では「長州勢」と記述されているが、『徳川慶喜公伝』では「薩州勢(薩摩勢)の誤なるべし」としている。渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十二章 「東帰恭順」竜門社、1918(大正7)年、299頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「城中の混雑はひとかたならず。当時主戦論を主張せしはひとり会桑のみにあらず、老中以下諸有司に至るまで、ほとんど主戦論者ならざるはなき有様なりしかば(なかには随分抱腹すべき主戦論もありたり)」[151]
- ^ 徳川慶喜「あの時分、(フランス公使)ロセス(レオン・ロッシュ)は(私を)マゼステー(fr:Sa Majesté、陛下)、それから(イギリス公使)パークス(ハリー・パークス)はハイネス(en:Highness、殿下)といった。それで板倉が、こういう議がある、どちらにきめると私に尋ねたことがある。上に天子(天皇)がある、天子のある以上は(私の方、征夷大将軍・大君は)ハイネスの方が相当と思うと言ったところが、板倉が大分不承知だった。それで仏が先に出るとか英が先に出るとか、大分先を争った。その時分にロセスの方では、いろいろ日本のためになることを密かに申し上げたいから、どうぞ内謁をしたいということであった。よろしいと言って、内謁でロセスに逢った。いろいろ話をしていると、パークスがずっとやって来たんだね。どうもどういうものか、私も外国のことには慣れぬから、喧嘩でもできなければよいと思っていると、しきりにロセスとパークスと議論を始めたのだね。けれども私は議論は分からないから黙っていたが、それがすんでから、塩田三郎……ロセスの通訳に、あれは何だと尋ねたところが、一向沙汰もなくて、お前が先に出て挨拶をするという理由はないとパークスが言う、それからロセスはこうこうとしきりに論じ詰めた。ところがなかなか激しくなって、一番しまいに、さすがにロセスは才物で、パークスに、お前ここを何の場処と思う、大君へ拝謁する場処ではないか、拝謁の場処でそういう議論は甚だ失敬だと言ったんだ。それでパークスがついと止(や)めてしまった。こういうことを塩田から聴いた。それでロセスは、やはりパークスをおいてマゼステーと言うのだ、片方はハイネス、そういうことがあったよ。」[160]
- ^ イギリス公使パークスは殿下にあたるen:Highnessの敬称を征夷大将軍や大君であった徳川慶喜へ用いていた[160]。
- ^ 藩主不在の桑名藩では桑名城を捨てて藩主・松平定敬に合流するか、新政府軍と徹底抗戦をするか、開城して降伏するかで意見が分かれたが、議論が纏まらないうちに新政府軍の桑名進撃の情報が入ったため、桑名城を無血開城した。
- ^ 「十五日朝廷も亦外国事務取調掛東久世前少将をして、仏国公使と大坂に会見し、国書を授けて王政復古を通告せしめ(後日に到りて他国にも通告せり)、二十一日又、「徳川慶喜追討につきては、兵器・軍艦を徳川家・及其命を受くる諸大名等に輸入し、士官・兵卒を貸与することなかれ」と各国公使に要求せるを以て、二十五日各国孰れも局外中立を在留の其国民に布告せり。(戊辰局外中立顛末。内地騒擾局外中立始末書。平山敬忠日記。)老中の連署状に大君政府の語を用いたるは、失体の甚だしきものなれども、蓋し当時の情勢深く咎め難かるべし。又欧米諸国が孰れも局外中立を宣告せるを見れば、未だ朝廷を日本政府として承認せざりしを見るべし。」[167]
- ^ 生前の孝明天皇と直接接していた最後の征夷大将軍徳川慶喜が後年『昔夢会筆記』で男爵渋沢栄一から孝明天皇の「攘夷についての真の叡慮(天皇の思い)」を問われ、孝明天皇が過去の天皇家の中華思想や神道、近臣の無知に由来した外国人嫌悪だった事情を説明している[183]。また慶喜は同じ回想録のなかで、鷹司に外国の形勢、軍艦や兵隊の強大なこと、銃砲の鋭利なこと、それらの運転も自在であることなど、敗戦必須な攘夷戦争の現実政治上の不可能性を間接的に伝えたが、上述の鷹司による「大和魂」を持ち出しての精神論のあとで、鷹司から「貴所も烈公(徳川斉昭)の御子なれば、必ず攘夷はなされような」と奇抜な問いかけをされ、道理を説いても分からせることのできない分からず屋のどうしようもなさに困り果てた、とふりかえっている[184]。なお、同『昔夢会筆記』第1「烈公御教訓の事」での慶喜による述懐や、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻1 第三章 相続前後の外国関係「烈公の海防意見十條」で引用される烈公が老中筆頭・阿部正弘へ示した国事策論『海防愚存』の趣旨によると、烈公はその対外政策において、泰平になれきった士気を国内的に鼓舞する目的で攘夷論を使っていたのと同時に、現実政治上の国外政策としては軍制近代化を急ぎながらの和睦論者だったが、和睦を先に公開してしまえば一気に士気がゆるみいざ欧米列強から侵略戦をこうむれば日本国民全般が奴隷根性に陥ってどうしようもなく征服されてしまうのを危惧していたので、国防階級である武士側は幕閣の長(知的に問題があったとされる将軍・徳川家定による政務が実質的な機能していない状態でいう副将軍)である自ら、体面上、飽くまでタカ派を演じるべきだとしていたという[68][185]。
- ^ 徳川慶喜(七郎麿)ら水戸家の貴公子らは水戸城で起床後かおを洗ってうがいをし、寝巻から服を着替えて座に着くと、侍臣が目の前に見台をもちだしてきて、貴公子らがただちに四書五経のなかのひとつを一巻の半分ほど復読する[192]。その近侍らが公子らのうしろから髪を結いながら公子らの復読の間違いを正し、終わって朝食をとると午前10時まで習字、つづけて水戸弘道館へそろって登校し、教師から四書五経の素読の授業をうけ講義を聴き、校内の文武の学生らの修業を見学した[192]。正午に公子らは弘道館至善堂(公子らの休憩所・勉強部屋を兼ねる一室)へかえり昼食をとった[192]。午後、公子らは武芸(武道)の教えを受け、夕方に一定時間、遊びの時間が与えられた[192]。夕食後に、公子らはその朝読み残したところを復習して本一冊をおわり、これで一日の文武課程と定められ、それと違ったことはゆるされていなかった[192]。水戸家の子女はみなそうで、七郎麿(慶喜)も等しくこの規則のもとで教育されていた[192]。烈公は傅役(養育担当の侍従長)の水戸藩士・井上甚三郎に公子らの教育方針の手紙を送り「予の庶子は嫡子とちがって養子を望む家があればただちに遣わすつもりなので、永くわがひざもとで教育しがたい。そうならば文武ともに怠らせてはいけない。もし他家に出してやった時、柔弱で文武の心得がなければ、わが水戸家の名を辱めることがあるだろうからだ。水泳・弓術・馬術の三科は並列して修業させてくれ。なかでも馬術は弘道館の馬場でのるだけでは何の役にも立たない。現実の山の坂道をのぼりまわる練習で、たびたび偕楽園の好文亭あたりや、千波湖のあたりを走らせてまわるべきだ。那珂湊などへも供をする付き人どもと手軽に馬に乗って遠出させるよう扱ってくれ。ただし、子供はじめみな腰弁当でいくように」と述べていた[193]。慶喜は天分に恵まれ他の諸子らより明敏で、烈公が水戸へ帰ってきて各こどもをみて評したとき、慶喜について「天下天晴の名将となるだろう。しかしよく教育しなければ、手に余るかもしれない」「七郎(慶喜)と八郎(松平直侯)は御用に立つべき者」といっていた[194]。青年期の慶喜は初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード から「彼は英国の狩りの名人と同じく、あらゆる天候で鍛えられた疲れを知らぬ馬術家であった」と評されたが[195]、馬術について非凡でいわゆる大名芸(実戦に堪えない武技)ではなかったのはこの為だと渋沢栄一は『徳川慶喜公伝』(1章 誕生及幼時)でいう[193]。慶喜への少年教育の様子は『徳川慶喜公伝』4巻35章逸事「烈公の教育」以下で詳しく触れられている。七郎麿(慶喜)は総じて挙動が快活で甚だ元気がよく、優しい性格の異母兄・五郎麿(池田慶徳)がひな人形を飾って遊んでいると七郎が「五郎様は面倒な事をなさる」といって取り壊し喧嘩になったり、弘道館までの通学路でいつも兄弟の公子たちと石けり遊びをしているため外聞を考えたお付きの侍従がついにやめさせようとしたところ、帰り道では七郎の発案で公子らが左右二手に分かれ止めようとする2人の侍従を公子ら申し合わせて順番に煙に巻き、石けり遊びをつづけようといたづらしたり、『弘道館記』の文武両道(文武不岐)の方針にたがわず運動を好んで読書をくりかえし怠けたりしていた。このため七郎は侍臣からいよいよ灸を据えられた。しかし七郎はこれでも「陰気な書物を読まなくていいからかえって心安い」と平然としていたので、烈公の命令でつくられた座敷牢にいれられ、以後、反省して別人の様に読書にも励み学習課程をきちんとおこなうようになった。授業を受ける態度は整然と着座するなど他の公子らより真面目で、授業後の休み時間にはうってかわって八郎(松平直侯)や九郎(池田慶徳)ら2公子を相手に火事だ軍だとわめきまわって手荒い遊びをするなど勇ましい様子だった。七郎は就学した6、7歳ころには松平頼救ふうの書道を習いきわめてみごとな筆遣いで、10歳の頃にはすでに四書五経の素読課程を終えて『史記』や漢書もよみこなすなど、少年の所業をこえていたので、人々は古今聞いた事のない英邁さだと感じていた。また、ある日、烈公の前で公子らが書道を披露する催しがあったとき、兄の五郎(慶徳)が書く順序をなぜか弟の七郎(慶喜)へゆずろうとした。しかし七郎(慶喜)も兄へゆずろうとして、互いに席へ着こうとしなかった。いくらいっても兄が席につこうとしないのでやむをえず、七郎(慶喜)が筆を執ったが、連句の下の句をかきはじめ、上の句を無言のうち兄君にゆずっていた。このときの七郎(慶喜)のふるまいがすべて礼(悌のすがた)にかなっていたので、謙譲の美徳の見本だと感じない人はいなかった[196]
- ^ 12代将軍・家慶にとって慶喜(松平七郎麿が家慶から偏諱を賜った名)は、家慶の正室・喬子女王と斉昭の正室(慶喜の実母)・吉子女王が共に有栖川宮家出身の実の姉妹であるため、血統上の甥にあたり、当時の一橋家にとって身近で血統的にもふさわしい人物は御三家・御三卿の中で慶喜以外にいなかった。また時の老中筆頭・阿部正弘の賛意があり、七郎麿(慶喜)は幼少から英明のうわさが広く流布していた。こうして家慶は七郎麿(慶喜)を将軍家(徳川宗家)を継ぐ系譜にあった御三卿・一橋家の養子にすることを望んだ[197]。家慶は慶喜をたいそう深くかわいがることおおかたではなく、既に実子の徳川家定がいたが病身で、鷹狩り・猪狩りなどの狩猟や釣りの際にはおおむね慶喜を伴わせた[198]。ある日、慶喜が家慶の釣りにお供して将軍家(徳川宗家)側近の侍臣の人々と共に糸を垂れていたとき、お付きの人々は大きな魚を釣り上げれば慶喜のかごにいれて彼のお手柄とみせかけようとしたが、慶喜はこどもながら「そういう不正はよくない」といって、自分の釣ったのは小さな魚だと従者からそのまま家慶へいわせた[198]。家慶はこれを聞くと手を打って悦に入った[198]。のちの家臣で慶喜の伝記編纂者・渋沢栄一は、これが水戸での少年教育の結果であるという[198]。水戸藩士で慶喜の傅役(養育担当の侍従代表者)井上甚三郎がこどもの七郎麿(慶喜)と打球(慶喜がおさないころから好んでいた武芸)の時「わたしがお相手とならば、いくら君公(主君の貴公子)といっても決して勝ちはゆずれません。わざと勝ちを譲られても真の勝ちとはいえません。かえって君公の心がおごりたかぶることがあっては、なげくべきことですから」といった[199][200]。七郎麿がひそかにルール違反の左手をつかい、ずるをして勝とうとしたとき、そばで見ていた井上が声をかけ「今度はそれがしがお相手つかまつりましょう」というと、(より卑怯な手をつかって)ザルで一気に数十個の玉をゴールに投げ入れた[199][200]。井上は「もし貴公がひそかに手を使って球を掬われるのなら、それがしはこのように致しますぞ」といい、顔色を正して、七郎麿(慶喜)のずるをいさめた[199][200]。後年の慶喜が振り返って言うには、このとき慶喜はひどく恥じ入って、井上へなにも答えられなかったという[200]。1856(安政3)年慶喜が一橋家を相続した20歳の頃、まだ武道の方が文事よりまさっていたので、旗本・川路聖謨がいさめて「ただいままでは武7、文3ですが、文武不岐と(烈公から『弘道館記』で示される様な教育方針を)申し聞かされておりますので、貴卿もいま専ら学問を遊ばされ、文武5分5分まで至らせ給わるがよろしいかと存じます」と慶喜へ言上した[201]。慶喜が22、3歳になるころにはどの本でも、レ点のない漢文の原書もかな書きのよう読めるようになっていたためその間、尋常でなく学力が進歩し、愛読書は『資治通鑑』や『孫子』などだった[201]。
- ^ 吉田松陰『東北遊日記』の記録では当時71歳。1851年(嘉永4年)1月14日。国立国会図書館デジタルアーカイブ、2021年10月8日閲覧。
- ^ 当時22歳。水戸学者の同藩士・藤田東湖の4男。
- ^ 下関戦争の講和条件に含まれる賠償金300万ドルは調印した長州藩ではなく、公儀である江戸幕府(徳川宗家の政体)へ請求され、満額を分割で払いきるまでには大日本帝国発足後の1874(明治7)年前までかかった。(下関賠償金)。
- 1 鳥羽・伏見の戦いとは
- 2 鳥羽・伏見の戦いの概要
- 3 結果
- 4 史跡
- 5 戊辰戦争に至る背景
- 6 脚注
- 7 参考文献
- 8 関連項目
鳥羽・伏見の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:12 UTC 版)
慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、藩兵にはこれに加わるなと厳命した[要出典]。しかし、在京の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加した[要出典]。同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを土佐在国中に谷干城から報告を受けた乾退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した[要出典]。容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する乾率いる土佐迅衝隊に、寒いので自愛するよう言葉を与えた[要出典]。
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鳥羽・伏見の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 04:03 UTC 版)
この薩土密約に基づき、1867年(慶応3年)12月28日、京都にいる西郷隆盛から土佐の乾退助あてに、「討幕の開戦近し」との伝令が出された。その予想どおり、明けて1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。1月4日、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助、山地元治、北村長兵衛、二川元助らの部隊が「薩土討幕の密約」に基づき参戦。その後、錦の御旗が翻る。同1月6日、京都から谷干城が早馬で土佐に到着し、京都において武力討幕戦が開始されたことを土佐藩庁に報告した。大政奉還が成って以降、武闘派の棟梁と警戒されて、藩軍の大司令(陸軍大将)の職を解かれ、さらにその他総ての役職を被免され失脚していた乾退助は、即日、失脚を解かれ藩軍の大司令に復職した。同1月6日、乾退助は、谷干城の報告を受けて、薩土討幕の密約を履行すべく、土佐勤王党の流れをくむ隊士や、勤皇の志を持った諸士からなる迅衝隊を土佐で編成。さらに翌1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断が下った。
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鳥羽・伏見の戦い
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慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を宣言すると、京都・大坂の幕臣は大きく動揺する。素六もその騒動の中で指揮に当たっていたが、江戸に戻るよう命令が下った。兵乱を防ぐため京都残留を願い出て隊を離れた素六は、単身伏見を回って大坂に向かった。大坂に向かう途中、道端の林の中にナポレオン3世から幕府へ贈られた大砲2門が置き去りになっていた。捨て置けば幕府の不名誉となると考えた素六は、江戸っ子の人夫たちに淀まで引くことを依頼して大砲を大坂まで運ばせたという。 慶応4年(1858年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いは、薩摩側の天皇から預かった「錦旗」が効果を発揮し、徳川側は手出しできず総退却し、大阪を引き上げた。この戦いの中、素六は敵からの防衛のため、若手の兵を借りることを肥後守に申し出て、砲兵一大隊と歩兵一中隊を与えられた。素六は、大坂市街を戦場にせず、幕府の兵が無事に江戸へ退き、徳川慶喜が安全に大坂を立ち去れるよう兵を率いて淀川に沿った守口で陣を構えた。しかし、徳川慶喜は脱出ルートとして海路を使い和歌山に抜けたため、素六は部下の不満をなだめながら大坂へと向かったが、大坂城内は撤収騒ぎで混乱しており、更に堺方面に逃れた。その堺でも街中で発砲を受けながら、素六は部下に動揺も与えず紀州へと逃れた。紀州では、空腹のため民家に食料を分けてもらい、まずは兵士に食を与え、最後に自分の分の食料を買いに行かせた。米を炊いている最中、素六は疲れから熟睡してしまい、旅費として支給されていた200両を盗まれてしまったが、当惑の素振りを見せないよう、行軍の指揮者として知恵を働かせ、兵を乗せるため千石船一隻を借り受け、和歌山沖より江戸に向かって出帆した。江戸へ向かう途中、幕府の軍艦順動丸に出会い、これに乗り換えて品川へ着いた。
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鳥羽・伏見の戦い
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鳥羽・伏見の戦いが始まると、山内容堂は在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す」と告ぐが、土佐藩兵は薩土密約に基づき独断で戦闘に参加し、慶応4年1月7日(1868年1月31日)、徳川慶喜が「朝敵」として討伐の勅が下るや、翌1月8日(太陽暦2月1日)には乾の謹慎が解かれ、1月9日(太陽暦2月2日)、迅衝隊の大司令に任ぜられる。同1月13日(太陽暦2月6日)土佐を出陣し、高松藩、伊予松山藩を帰順させて上洛を果たす。京都に到着した乾の率いる迅衝隊は、先の伏見の戦いでの土佐藩士の参戦者と合流し、隊の編成を組み直し、乾が総督を兼任して、戊辰戦争で東征の途についた。 土佐藩が初戦より戊辰戦争に参戦し、錦の御旗を下され、戦争で勝利を収め、その後の国会開設などを含めた近代日本国家を形成する契機を作ったのは、ひとえに中岡慎太郎の盡力によるものである。
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鳥羽・伏見の戦い
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慶応3年(1867年)2月12日、容保は辞表を提出する。この頃、会津藩士たちの幕府への怒りは怫然として高まる。「いったい幕府は先帝の叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力の発揚もできず、尽言を進めても採用もしない。わが公に大政に参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた。天恩の万分の一は報い宗家への義務も尽くした。藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土に帰る、今が時期である」との気運が怫然とした。容保は重臣を集め、「国に帰ろう」と言い、重臣らは一人も異議なかった。しかし京都所司代松平定敬、老中板倉勝静らからは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。2月13日、幕府より「将軍家に代わり征長の解兵を奏上せよ」と命じられるが、容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退する。 4月8日、幕府へ書面にて賜暇を申請する。「昨年国元大火にて城下の過半焼失し、加えて非常の凶作にて四民飢餓離散の程、千万心配仕り候。止むをえざる都合、御察し御許容なされ候よう相願い候」しかし帰国の件は何かと引き伸ばされ、やがて政変に際し実現せずに終わる。 4月23日、朝廷より勅を賜り参議に就任する。この勅は元治元年2月に一度辞退しているが、勅には「先帝の叡慮を尊奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず」とあり、また「再度の推任であるから固辞は許さない」とあり、重臣たちからも「先帝の叡慮云々とあり、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」として5月2日にこれを受けた。 10月、15代将軍・徳川慶喜より大政奉還の意中を聞き、容保はその英断を賞揚する。10月14日、慶喜が大政奉還を上表、江戸幕府が消滅する。同じ日には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書(討幕の密勅)も出されていた。12月8日、朝議にて長州藩の罪が許され、毛利家の官位が復旧する。 12月9日、王政復古の詔勅が下る。この勅をもって守護職と京都所司代は廃止され、帰国が命じられた。蛤御門の守衛も解かれ、土佐藩が替わった。朝廷から幕府へは「大政奉還の至誠を嘉賞し天下と共に同心して皇国を維持するように」とあったが、会津など幕府側は政権からは疎外され、朝議があっても参加させず、実権を握った諸藩士や過激の徒は公卿を誘惑して会津を仇敵視した。会津藩士たちは憤慨し「君辱しめらるれば臣死す、という言葉があるが今がその時である」と一触即発の気勢を見せたため、容保は家臣をなだめ諭した。しかし長州兵が入京するにおよび、会津藩士の憤慨は度を高めた。慶喜は容保、松平定敬を従え、二条城より大阪城へ移る。 慶応4年(1868年)1月3日、慶喜が大坂を出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。旧幕府軍が敗北する。 1月6日、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し、夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命により、これに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)であるが、容保にとっては大切な家臣たちを戦場に残し逃げる形となってしまう。家臣の誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の開陽丸に連れられたという。 2月4日、容保は大坂脱出の責任を取るため藩主を辞任し、家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲る。2月15日、容保は藩兵全員を江戸の和田倉邸内に集め、鳥羽伏見戦争における奮戦を慰労、同時に自身の大坂城脱出を大いに恥じて謝罪、会津を回復したいと藩士を励ました。 2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し、会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も、会津の人間のほとんどが江戸を後にした。2月22日、会津に到着する。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の2方向へ動く。 3月、奥羽鎮撫総督九条道孝は参謀世良修蔵らとともに、東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じる。4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出する。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られた。横暴な態度が目立ち、奥羽の反感を買った世良は、仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不可避となった。
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鳥羽・伏見の戦い
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「新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者」の記事における「鳥羽・伏見の戦い」の解説
詳細は「鳥羽・伏見の戦い」を参照 鳥羽・伏見の戦いとは、1868年1月3日から6日まで、長州や薩摩の官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦いの事である。
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