えとう‐しんぺい【江藤新平】
江藤新平 えとう しんぺい
佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。藩校弘道館に学ぶ。尊王攘夷運動に加わり、その後開国論を唱える。藩吏となるが文久2年(1862)脱藩し皇権回復の密奏を図り失敗、藩から永蟄居を命ぜられる。明治元年(1868)新政府成立後、徴士として出仕、江戸遷都を提唱。文部大輔、左院副議長などを経て5年(1872)司法卿となり、司法制度整備や民法制定などに尽力した。6年(1873)参議となるが征韓論争に敗れて下野。7年(1874)民撰議院設立建白書に署名。同年帰郷後、征韓党の首領となり、佐賀の乱を起こすが敗北し、処刑された。
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江藤新平
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)
参議・司法卿。司法卿として法律・司法制度の制定を進めるが、内務省を設立して事を進めようとする大久保と対立する。自身の出世欲や私利私欲は持たない人物で、法の下に万民は皆平等と考えてはいたが、常に肥前佐賀を中心に物事を見る悪癖があり、それがために西郷の呼応を妄信して佐賀の乱を起こすが、西郷は乗らず政府軍に敗北、大久保による臨時裁判を受け、梟首となる。
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