大東義徹 おおひがし ぎてつ
生年が天保14年(1843)とする説もある。滋賀生まれ。政治家。彦根藩士で小西姓であったが、後に大東家を名乗る。維新後、藩の少参事となる。明治4年(1871)岩倉遣外使節団に同行し欧米を視察。司法省に出仕し権少判事となるが辞職し、7年(1874)彦根に「集議社」を設立。10年(1877)西南戦争で西郷隆盛軍に投じ入獄。23年(1890)から35年(1902)に衆議院議員(連続当選7回)。31年(1898)には隈板(第1次大隈)内閣の司法相となった。
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大東義徹
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大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、天保13年7月15日[1](1842年8月20日) - 明治38年(1905年)4月8日)は、 日本の政治家[2]。司法大臣(第9代)、衆議院議員(7期)を務めた。元は小西姓。父は小西新左衛門。通称、近江西郷。
- ^ 衆議院『第十七回帝国議会衆議院議員名簿』(第十七回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1902年〕、14頁。
- ^ [https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E7%BE%A9%E5%BE%B9-1061373 大東義徹(読み)おおひがし・ぎてつ 朝日日本歴史人物事典、デジタル版 日本人名大辞典+Plus「大東義徹」]
- ^ 『官報』第4504号「叙任及辞令」1898年7月6日。
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