木村尚達_(司法官)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 木村尚達_(司法官)の意味・解説 

木村尚達 (司法官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:41 UTC 版)

木村尚達
生年月日 (1879-05-27) 1879年5月27日
出生地 熊本県
没年月日 (1947-11-01) 1947年11月1日(68歳没)
死没地 日本
出身校 京都帝国大学法科大学
所属政党 研究会

在任期間 1939年2月15日 - 1940年1月16日

第40代 司法大臣
内閣 米内内閣
在任期間 1940年1月16日 - 1940年7月22日

貴族院議員
在任期間 1940年7月16日 - 1946年5月16日
テンプレートを表示

木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年5月27日 - 昭和22年(1947年11月1日)は、日本裁判官検察官政治家検事総長司法大臣貴族院議員

経歴

熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。

1908年4月、検事任官東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学ミュンヘン大学で学んだ。

1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。以後、東京地裁部長、司法書記官司法省参事官大臣官房調査課長、兼検事・大審院検事を歴任。1931年9月、司法省刑事局長に就任し、大審院検事、大審院部長判事などを務めた。1938年7月、東京控訴院(現東京高等裁判所)長、さらに、1939年2月、検事総長に就任した。

1940年1月、米内内閣の司法大臣に就任。同年7月、同内閣が総辞職をすると、同月16日、貴族院勅選議員に任じられ[1]研究会に属して活動し、1946年5月16日に辞任した[2]。戦後、1946年に公職追放となった。

その他、法制審議会幹事、法規整備委員会委員、王公族審議会審議官などを務めた。

親族

脚注

  1. ^ 『官報』第4058号、昭和15年7月17日。
  2. ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。

参考文献

公職
先代
宮城長五郎
司法大臣
第40代:1940
次代
風見章



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「木村尚達_(司法官)」の関連用語

木村尚達_(司法官)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



木村尚達_(司法官)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの木村尚達 (司法官) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS