やまだ‐あきよし【山田顕義】
山田顕義 やまだ あきよし
山口生まれ。陸軍軍人、政治家。父は萩藩士。松下村塾に学ぶ。尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争で活躍。明治2年(1869)兵部大丞に就任。4年(1871)陸軍少将に昇進、岩倉遣外使節団に随行。佐賀の乱、西南戦争に従軍し、反乱士族を鎮圧。11年(1878)中将。参議をつとめる一方、工部卿、内務卿、司法卿を歴任。第1次伊藤内閣の司法相に就任し、以後黒田内閣、第1次山県内閣、第1次松方内閣でも留任した。法典整備に尽力し、皇典講究所(現国学院大学)、日本法律学校(現日本大学)の設立にも関わる。
キーワード | 陸軍軍人, 政治家 |
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山田顕義
山田顕義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 09:09 UTC 版)
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体:山田 顯義、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人[1]。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。
注釈
- ^ 山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している
- ^ 現代語訳すると以下の通り。
立志尚特異 志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難 世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業 世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安 ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳 人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐 君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように - ^ 実際には8月まで募兵は続いている
- ^ 大津事件手記によると、内心では皇室罪の適用に消極的だったと思われる記述がある
- ^ 実情は、大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示にそえなかった責任をとっての辞任であった。
- ^ 死因は脳溢血と見られている。
- ^ 高木俊朗によればその死は花谷正に強要された自決である。
- ^ 顕義が建白書に書いた一節。この建白書を見た木戸孝允は顕義に軍事から法律の世界へ転身することを強く勧めた。
- ^ 不平等条約改正の交渉をするのに、日本に憲法も法律もないことが足かせになることを身をもって経験しているので、日本の慣習や文化を踏まえた法律をつくる必要性を力説した。
- ^ 岩倉使節団に参加した際、パリの凱旋門の前でつぶやいたとされる言葉。凱旋門はナポレオンが戦勝記念に建設を開始したものであるが、皇帝ナポレオンは凱旋門の完成を見ずにこの世を去っている。
- ^ 軍事力がつきすぎると脅威にかわるという意。
- ^ 国家は争いや武力よりも、法律が人を守り国家を豊かにするという意味が込められた言葉。
- ^ 顕義がよく口にしていた言葉。
出典
- ^ 朝日日本歴史人物事典「山田顕義」
- ^ タウン情報 萩(山口県). “【新日本の設立者】 山田顕義 【小ナポレオン】”. 山口県萩市のタウン情報サイト. 2015年9月29日閲覧。
- ^ 秋山香乃 (2006, pp. -)、古川薫 (1994, pp. -)
- ^ 萩市観光協会公式サイト「ぶらり萩あるき」. “山田顕義誕生地 (顕義園)”. 萩市観光協会公式サイト. 2015年9月29日閲覧。
- ^ “山田顕義の生涯~西郷隆盛に「小ナポレオン」と賞された用兵の天才”. WEB歴史街道 (2017年11月10日). 2019年10月15日閲覧。
- ^ 秦 2005, pp. 165–166, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:山田顕良
- ^ a b c 萩観光情報サイト 萩ナビ. “山田顕義 ~用兵の天才から法典伯へ”. 萩焼会館. 2015年10月1日閲覧。
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- ^ 日本大学広報部広報課. “陸軍創設への貢献”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
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- ^ ダイヤモンド・オンライン. “「兵ハ凶器ナリ」--法整備の重要性を説いた山田顕義”. ダイヤモンド社. 2015年9月30日閲覧。
- ^ 日本大学広報部広報課. “士族反乱を鎮圧”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
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- ^ a b c d e 幕末歴史研究会. “山田顕義~民法・商法など日本の近代法の整備に尽力”. 幕末・維新風雲伝. 2016年1月26日閲覧。
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- ^ 日本大学広報部広報課. “司法への道と法典編纂”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月30日閲覧。
- ^ 高田晴仁「法典編纂における民法典と商法典・下 その「重複」と「抵触」を巡って」『法律時報』71巻8号、日本評論社、1999年、86、90頁
- ^ 刑部 p 207〜208
- ^ 穂積陳重著『法窓夜話』p58「法服の制定」,有斐閣,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大学史編纂課. “学祖位牌と山田農場”. 大学史編纂課だより. 2015年9月30日閲覧。
- ^ 萩市観光協会. “「ぶらり萩あるき」公式サイト”. 萩市観光協会. 2015年9月30日閲覧。
- ^ 『官報』第2626号、明治25年4月4日。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「山田顕義」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166600
- ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」明治19年10月20日
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」明治17年7月8日
- ^ 『官報』第1609号「彙報 - 褒章」明治21年11月8日
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」明治22年11月30日
- ^ 『官報』第2816号「叙任及辞令」明治25年11月15日
- ^ 『命を棄てて』P175
- ^ 『命を棄てて』P173
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