下関戦争
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下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 旧長州藩領の大部分を継承する山口県の県庁もこれを踏襲している(「やまぐちを知ろう」・「やまぐち きらめーるマガジン」)
- ^ ただし「下関事件」の用例については曖昧回避項目の下関事件を参照のこと。
- ^ 『日本史B』(実教出版。平成14年1月25日発行。平成9年3月31日 文部科学省検定済。教科書番号:7実教 日B582)p 227に「勅命を受けた幕府は, 1863(文久3)年5月10日を攘夷決行の日とすることを諸藩に命令したが, 実行したのは, 当日下関海峡を通過した外国船を砲撃した長州藩だけであった(下関事件)。」、「1864(元治元)年7月になると, 池田屋騒動をきっかけに大兵を擁して再度上京してきた長州藩が, 薩摩藩および幕府側の会津・桑名の諸藩兵と激戦ののち敗退した(禁門の変, 蛤御門の戦)。ついで8月には, 長州藩の下関砲台が, イギリスを中心とするフランス・アメリカ・オランダの4か国連合艦隊によって攻撃された(下関戦争)。これは前年の砲撃に対する報復であった。」と記載されている。
- ^ 幕府は横浜港の鎖港通告を攘夷実行と位置づけており、5月9日に小笠原長行が文書で外国外交団にその旨を告げている。これは一旦取り消されたが、同年12月には横浜鎖港談判使節団をヨーロッパに派遣した。
- ^ 非武装の商船を砲撃し、追い払っただけなら、前例としてモリソン号事件がある
- ^ ポンペ、pg 370-376
- ^ 『幕末・維新』126頁
- ^ 『幕末・維新』128頁
- ^ 『幕末・維新』129頁
- ^ 山口市文化政策課 「幕末山口諸人往来 第12回 幕府の長州糾問使と朝陽丸事件 文久3年7~9月」
- ^ 桐野作人 さつま人国 長崎丸沈没事件の真相
- ^ 維新史回廊構想・維新史回廊トピックス第9号(解説:下関市立長府博物館・古城春樹) 山口県文化振興課・2008年12月4日。
- ^ a b c d 維新史回廊構想・維新史トピックス(第4号) - 山口県文化振興課
- ^ 渡辺修二郎『高杉晋作』(少年園、1897)pp.54-55 古谷久綱『藤公余影』(民友社、1910)pp.77-79 ただし講和当時の記録には残されていない。古川薫『幕末長州の攘夷戦争』(中央公論社)pp.198-205
- ^ 北東の長府側から城山、関見、角石、茶屋、洲崎、駕建場、杉谷、壇ノ浦、御裳川、八軒家、亀山、専念寺、永福寺であり、さらに彦島に弟子村、山床の砲台があった。
- ^ 山のないオランダの戦術書を参考に、砲台を築いたためとも言われている。
- ^ 連合国は事前の偵察により長州藩の砲台を10箇所としていた(砲台位置は地図参照)。
下関戦争
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「デュプレクス (コルベット)」の記事における「下関戦争」の解説
「デュプレクス」は1864年の下関砲撃に参加した。この時、「デュプレクス」はコルベットの戦列の2番目、イギリスの「ターター (Tartar) 」とオランダの「メターレン・クルイス(Metallkruz)」の間に位置していた。「デュプレクス」は411発の砲弾を発射。22発の命中弾を受け、2名の死者と8名の負傷者を出した。 1864年12月28日に「デュプレクス」はフランスへ向かい、1865年6月25日に退役した。 1867年、「デュプレクス」はシェルブールで再就役した。1868年2月、横浜到着。
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下関戦争
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詳細は「下関戦争」を参照 攘夷機運は高まる一方であり、将軍徳川家茂は孝明天皇に対し、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達していた。多くの藩はこれを無視したが、攘夷運動の中心的存在である長州藩は、下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取っていた。攘夷期限の6月25日、長州藩はアメリカ商船ベンプローク号 (Pembroke) を攻撃、7月8日(5月23日)にはフランスの通報艦キャンシャン号 (Kien-Chang) を、さらに7月11日(5月26日)にはオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号 (Medusa) を攻撃した。
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