ふおう‐せんそう〔フアウセンサウ〕【普墺戦争】
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/31 01:03 UTC 版)
普墺戦争(ふおうせんそう、独: Deutscher Krieg)は、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した。7週間戦争やプロイセン=オーストリア戦争[1]とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。
- 1 普墺戦争とは
- 2 普墺戦争の概要
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:23 UTC 版)
「フランクフルト・アム・マイン」の記事における「普墺戦争」の解説
1866年の普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセン王国との連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。 1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。 1871年、普仏戦争はフランクフルト講和条約をもって公式に終結した。
※この「普墺戦争」の解説は、「フランクフルト・アム・マイン」の解説の一部です。
「普墺戦争」を含む「フランクフルト・アム・マイン」の記事については、「フランクフルト・アム・マイン」の概要を参照ください。
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/07 09:22 UTC 版)
「カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ」の記事における「普墺戦争」の解説
1866年、シュタインメッツは第5軍団司令として普墺戦争に参加した。彼はリーゼンゲビルゲ (Krkonoše) 山地の三つの峠を超えてボヘミアへ進攻する、王太子の軍に配された。シュタインメッツの軍団は、後方のルイ・フォン・ムーティウス (de:Louis von Mutius) 大将率いる第6軍団 (VI Corps (German Empire)) とともに王太子軍の左翼を構成した。オーストリア=ハンガリー帝国軍 (de:Kaiserlich und königliche Armee) の大将、ルートヴィヒ・フォン・ベネデック (Ludwig von Benedek) は、王太子軍に属する軍団の合流を絶対に阻止しようとする。こうして6月27日、ヴィルヘルム・ラミンク・フォン・リートキルヒェン (de:Wilhelm Ramming von Riedkirchen) 中将率いるオーストリア=ハンガリー帝国第6軍団との間にナーホトの戦い (Battle of Nachod) が生起し、プロイセン軍 (Prussian Army) が激戦を制した。この時の働きで、シュタインメッツは「ナーホトの獅子(Löwe von Nachod)」というあだ名を得ている。この勝利をもって彼は山脈に突破口を開き、指揮下の部隊はヴィソコフ (Vysokov) の高地を制圧した。 その翌日、シュタインメッツの軍団の一部はオーストリア大公レオポルト (Archduke Leopold Ludwig of Austria) 中将率いる第8軍団を、スカリッツの戦い (Battle of Skalitz) において完全に打ち破る。次の日、シュヴァインシェーデルの戦い (Battle of Schweinschädel) で彼はその部隊とともに、オーストリア=ハンガリー帝国第4軍団の一部に勝利した。スカリッツにおける敗北により、その後背をシュタインメッツの軍団に晒したため、オーストリア陸軍は当初の目標の断念とケーニヒグレーツへの退却を強いられた。シュタインメッツの部隊が収めたこの成功をもって、ケーニヒグレーツの戦いにおける決定的な勝利の下地が本格的に整う。彼の軍団自体はシュヴァインシェーデルの戦いの後、他の3個軍団の後方に残らなければならなかったので、この決戦には参加していない。ようやく午後8時頃、部隊を率いて戦場に到着したのである。しかしこの日、部隊は部分的に未舗装の道を通ったり、原野を横断したりして40 kmの行程をこなしたのであった。大モルトケと並び、シュタインメッツは当時、最も称えられた将軍である。 このように彼の軍団は1866年6月27日と6月28日、その一部だけでオーストリア側の1個軍団を破り、6月29日には来援した1個連隊を完全に全滅させている。この時、プロイセン側は2889名の損害を被った一方、オーストリア側は13000名以上を失った。この戦争における功績に報い、シュタインメッツは多額の贈与金 (de:Dotation) を賜った。すでにシュヴァインシェーデルの戦いの後、彼は黒鷲勲章 (Order of the Black Eagle) 並びに赤鷲勲章 (Order of the Red Eagle) の剣付き大十字章を授与されている。その際の証書に国王ヴィルヘルム1世は、この授与が自身の治世でも、解放戦争以来でも初めての授与であることを明記した。
※この「普墺戦争」の解説は、「カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ」の解説の一部です。
「普墺戦争」を含む「カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ」の記事については、「カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ」の概要を参照ください。
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「普墺戦争」の解説
シュレースヴィヒとホルシュタインの支配権をめぐってプロイセンとオーストリアの対立は深まった。ヴィルヘルムは英国女王ヴィクトリアに仲裁を頼むなどオーストリアとの和解を希望していたが、ビスマルクにその意思はなかった。またビスマルクと同様にヴィルヘルムもシュレースヴィヒとホルシュタインの併合を断念する意思はなく、それが是認された上での和解を考えていたので、英国女王ヴィクトリアがこの併合を侵略と看做していた以上、ヴィルヘルム1世の希望通りの和解が成立する見込みはなかった。 ビスマルクが1865年2月に発した「2月宣言(Februarbedingungen)」(形式的にアウグステンブルク公独立公国を認めつつ、プロイセンの強い軍事的影響下に置く内容)をオーストリアが拒否した事件をきっかけにヴィルヘルムもオーストリアへの不快感を強め、親墺派のマントイフェルの上奏を退ける形で、5月29日の御前会議(ドイツ語版)において両公国の併合は国民が求めていることであると宣言した。 さらに両公国に対する彼の主権がオーストリアによって妨害されているというビスマルクの言を信じて、1866年6月9日にプロイセン軍をホルシュタインへ進駐させた。これによりオーストリア・バイエルンの主導でドイツ連邦軍を動員する決議がなされ、ビスマルクはプロイセンをドイツ連邦から脱退させた。それがきっかけとなって普墺戦争が勃発した。 戦況はケーニヒグレーツの戦いにプロイセン軍が勝利したことでプロイセン優位に傾いた。ヴィルヘルム1世は開戦前はオーストリアとの戦争に慎重だったが、ケーニヒグレーツの勝利に舞い上がって将校たちと同じようにウィーン入城を希望するようになっていた。しかしフランス皇帝ナポレオン3世が講和交渉を斡旋すると介入してきたためプロイセンも講和に入る必要に迫られた。その講和をめぐってヴィルヘルム1世とビスマルクは7月22日からニコルスブルクの大本営において鋭く対立した。 オーストリアはナポレオン3世を介して自国と最もオーストリアに忠実に戦ったザクセン王国の領土保全を休戦協定の条件として提示していた。しかしヴィルヘルム1世はザクセンがこの戦争の「主犯」と考えており、オーストリアとザクセンの領土を削減したがっていた。一方ビスマルクはオーストリアを将来にわたるまで敵としないため、オーストリアの要求を飲み、この二国の領土には手出しすべきではないと主張した。代わりにフランスが併合を許可していたザクセンを除く北ドイツ敵国を併合(王家廃絶)すべきと主張した。しかしヴィルヘルム1世は正統主義の立場から君主家の廃絶を嫌がり、また「主犯格」が「無罪放免」にされてハノーファーやヘッセン選帝侯国だけが併合されることに納得しなかった。これに対してビスマルクはオーストリアが納得できる条件でなければ第三国の介入なしには戦争を終結させられなくなると反論した。 この論争も激しかったらしく、皇太子フリードリヒによるとヴィルヘルム1世の部屋を退去したビスマルクはヴィルヘルム1世から受けた言葉に傷付いて皇太子の前で泣きだし、再びヴィルヘルム1世のもとへ参内することを恐れていたという。皇太子もこの問題についてはビスマルクと同意見だったので、ビスマルクを慰めて二人でヴィルヘルム1世のもとへ参内して説得にあたった結果、ようやく7月24日にヴィルヘルム1世が折れたという。7月26日にニコルスブルク仮条約が締結され、8月23日にプラハ本条約が締結され、普墺戦争は終結した。 それでも不満が残っていたヴィルヘルム1世はビスマルクの建白書の欄外に「軍隊と国家が期待して当然の物―つまりオーストリアからの莫大な賠償金と我々の主目的を危うくしない満足のいく新たな領土ーを敗者から獲得できないなら、勝者はウィーンの市門の前で熟していないリンゴをかじり、その審判を後世に委ねなければならない」と書きこんでいる。
※この「普墺戦争」の解説は、「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
「普墺戦争」を含む「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事については、「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の概要を参照ください。
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 00:19 UTC 版)
「ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン」の記事における「普墺戦争」の解説
その後、プロイセン ‐ オーストリア間に戦争の気配が漂い始めたことから、フォン・デア・タンはバイエルンに呼び戻された。これは結局1850年11月のオルミュッツ協定でプロイセンが小ドイツ主義に基づくドイツ統一を断念させられるという屈辱的な結果に終わった。1866年までは活躍の機会もなく、1851年に大佐、1855年に少将、1861年に中将と慣例通りに昇進した。この間、マクシミリアン2世の副官として近侍し続けた。1866年の普墺戦争でバイエルン王国はオーストリア帝国側につき、フォン・デア・タンは南ドイツ諸邦軍を指揮したカール・フォン・バイエルン王子の参謀長を務めた。精強なプロイセン軍の前に南ドイツ諸邦は不利な戦いを強いられたことから、参謀長であるフォン・デア・タンにもマスコミから激しい非難が浴びせられたが、そもそも南ドイツ諸邦は戦備が整っておらず、寄り合い所帯で指揮系統も非効率であったこと、兵士の中に「これはドイツ連邦内の主導権争いに過ぎない」という意識が流れていたこともあって、最初から南ドイツ諸邦の不利は決まっていたようなものであった。
※この「普墺戦争」の解説は、「ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン」の解説の一部です。
「普墺戦争」を含む「ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン」の記事については、「ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン」の概要を参照ください。
普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/11 16:36 UTC 版)
「第8軍団 (ドイツ帝国陸軍)」の記事における「普墺戦争」の解説
第8軍団は1866年の普墺戦争でケーニヒグレーツの戦いに参加した。
※この「普墺戦争」の解説は、「第8軍団 (ドイツ帝国陸軍)」の解説の一部です。
「普墺戦争」を含む「第8軍団 (ドイツ帝国陸軍)」の記事については、「第8軍団 (ドイツ帝国陸軍)」の概要を参照ください。
普墺戦争と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 普墺戦争のページへのリンク