ウィーン‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ウィーン会議】
ウィーン会議
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ウィーン会議(ウィーンかいぎ、ドイツ語: Wiener Kongress、フランス語: Congrès de Vienne、英語: Congress of Vienna)は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。
注釈
- ^ リーニュ侯爵シャルル・ジョゼフの言葉「会議は舞踏会ばかりで、先には進まない」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas)。舞踏では一般にステップを踏みながら円を描くように動くので、その決してA点からB点に位置を移動するようには動かない「堂々巡り」の状態を、実際に外交交渉よりも連夜の舞踏会の方が目立った会議にかけている。
出典
- 1 ウィーン会議とは
- 2 ウィーン会議の概要
- 3 概要
- 4 議定内容
- 5 脚注
ウィーン会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:25 UTC 版)
9月30日に会談は終わり、ミュンヘン協定が成立した。協定ではズデーテン地方のドイツへの割譲とドイツ軍による10日以内の占領を定め、さらにその他の地域は国際委員会によって係争地域の境界を定め、3ヶ月以内に行われる人民投票によって帰属を定めるとした。ドイツとポーランドはこの協定に応じ、ズデーテン地方はドイツ、シレジアのうちテッシェンは人民投票後の12月1日にポーランド領となった。しかしハンガリーは応じず、チェコスロバキア政府に即時割譲を求めた。10月13日にはハンガリー軍が動員され、国境地帯に集結した。両国は交渉を続けたがまとまらず、10月28日、チェコスロバキアとハンガリーはドイツとイタリアに調停を依頼し、その裁定に従うと発表した。 これを受け、ウィーンでドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップとイタリア外相ガレアッツォ・チャーノが主導し、国境画定の交渉が行われた。チェコスロバキアの代表団には後にスロバキア自治政府の代表となるヨゼフ・ティソ、カルパティア・ルテニア自治政府の代表となるアウグスティン・ヴォロシンも参加している。またドイツ航空大臣のヘルマン・ゲーリングも会議に参加している。11月2日に交渉がまとまり、条約が結ばれた。 調停の結果、南部カルパティア・ルテニアと南部スロバキアはハンガリーに帰属することとなった。しかし、これに反発したスロバキアとカルパティア・ルテニアでは独立運動が激化、11月9日にはスロバキアとカルパティア・ルテニアで自治政府が樹立された。このため割譲はスムーズに行われず、ハンガリー国内でも不満が残った。
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ウィーン会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:22 UTC 版)
オーストリア帝国が成立したのちの1809年、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(肖像)が外相に就任した。オーストリアは皇女マリー・ルイーズをナポレオン1世にと政略結婚させるなど、現実的政策を進める。ナポレオンが1812年のロシア遠征に失敗し、ライプツィヒの戦いで敗北しエルバ島に流されると、メッテルニヒは1814年にウィーン会議を開き、ナポレオン戦争後の新秩序構築を主導した。会議では各国の利害が入り乱れ紛糾し、さらにはナポレオンの復活でワーテルローの戦いが勃発するなど混乱したが、主催者のメッテルニヒは、フランス外相タレーランの唱える正統主義を基調にフランス革命以前の体制に戻す「復古体制」を「新秩序」にすることで取りまとめた。結局、神聖ローマ帝国の復活はできずドイツ連邦が成立するにとどまったが、オーストリアは、南ネーデルラントをオランダ王国に譲る代わりにヴェネツィアを含む北イタリアとチロル、ダルマチアを獲得した。さらに「ウィーン体制」維持のために神聖同盟に参加した。 しかし、ドイツではドイツ統一運動が始まり、スペインではラテンアメリカの独立が進み、1820年にはリエゴ革命、1830年にはフランスで7月革命がおきるなど「ウィーン体制」は早くも動揺をはじめた。また1834年にはドイツ関税同盟がプロイセン王国の主導で結成され、オーストリアの影響力は低下し始める。 1848年にフランスで2月革命が勃発すると、ウィーン、ブダペスト、ミラノなど帝国各地で暴動が発生し、メッテルニヒは英国に亡命。「ウィーン体制」は崩壊した。この年にはフランクフルトでドイツ国民議会が開かれ、小ドイツ主義がドイツ統一の基調となる。一方でフランツ・ヨーゼフ1世が新皇帝に即位し欽定憲法を発布し、各地の革命運動を鎮圧し、大ドイツ主義を標榜する。 その後は、1859年のイタリア統一戦争に敗北し、さらにドイツ統一などをめぐりプロイセンとオーストリアは対立し、1866年、普墺戦争でオーストリアが敗北した結果、プロイセン主導でオーストリアを排除した「小ドイツ主義によるドイツ統一」が促進されることになり、オーストリアは孤立することになるのである。
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