ウルムの戦い
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ウルムの戦い | |
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![]() チャールズ・テヴナンによる油絵 「ウルムの降伏」 | |
戦争:ウルム・アウステルリッツ戦役 (1805年)(ナポレオン戦争) | |
年月日:1805年10月17日 | |
場所:バイエルン選帝侯領のウルム近郊 | |
結果:フランス軍の決定的勝利 バイエルンのオーストリア軍の壊滅 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
80,000 | 40,000 |
損害 | |
戦死者 500
戦傷者 1,000 |
戦死者 4,000
降伏 27,000 |
ウルムの戦い(ウルムのたたかい、英: Battle of Ulm、仏: Bataille d'Ulm、独: Schlacht von Ulm、1805年10月17日)は、ウルム戦役中に、バイエルン選帝侯領(現ドイツ領)シュトゥットガルト近郊の町ウルム郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国軍(大陸軍)がオーストリア軍を破った戦いである。
機動力のみで勝利したナポレオンは、ウルム戦役全体で5万の損害を与えることに成功した。
背景
1805年8月、オーストリアはロシア、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)などと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。当初ナポレオンはイギリス侵攻を構想していたが、第三次対仏大同盟が結成されたため計画は頓挫していた。そんな中このニュースを聞いたナポレオンは、バイエルン及びウィーン侵攻を決意した。
9月23日、ナポレオンは元老院で「私は軍の先頭に立ち、私の同盟国の救援に向かう」と説明し、遠征を開始した。サン・クルー宮殿を発ったおよそ80,000のフランス軍が、グラン・ダルメ(Grand Armee)、つまり大陸軍と呼ばれるようになるのは、このときからである。最終的に、予備軍を含め全7軍団総兵力21万の「大陸軍」が9月24日、ライン川沿いに集結した。一方オーストリア軍はマック将軍の72,000がウルムとその周辺に展開していた。
経過
「黒い森」(シュヴァルツヴァルト)から進撃してくると信じていたマックを欺き、ドナウ湖畔まで進撃していたフランス軍は、簡単にオーストリア軍の背後に回り来むことに成功する。マックはフランス軍の動きが読めずに、ウルム篭城に固執した。
1805年10月14日、エルチンゲンを守るオーストリア軍の背後からネイ率いるフランス軍が突撃した。大混乱に陥ったオーストリア軍は街を放棄し、ウルム近郊へと後退した。この勝利により、ネイはエルチンゲン公の称号を授与された。
翌日、勢いに乗ったフランス軍はウルム西北にあり街を見下ろす防御線ミヘルスベルクの高地を強襲、占領。ウルムを攻撃したが、城壁に阻まれ後退した。だが同盟国のロシアは未だ現れる気配を見せず、オーストリア軍の劣勢は明らかだったため、ナポレオンはマックに降伏を勧告した。なかなか降伏してこないのに痺れを切らしたナポレオンは、18日に城内を砲撃。脅しに屈したマックは19日、ついに降伏した。
ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに手紙で、「6万人を捕虜にし、大砲120門以上、軍旗90本以上を鹵獲し、30人以上の将軍を捕らえた。」と戦果を知らせている。だがこの数字は誇張されていて、実際は捕虜は25,000人、鹵獲した大砲は65門、軍旗は140本ほどであろうと推測されている。
戦後
21日、ナポレオンは、占領地のシュヴァーベンに対して、オーストリア軍の武器庫・食料庫の接収を告示すると共に、占領地税と通常税を課した。オーストリア軍は多大な損失を出したが、主力は未だ健在であり、ロシアの援軍も迫っていたため、講和には応じなかった。これによりナポレオンは、「神の助けを得て、近い将来今度も敵軍に勝利することが出来ると思う」と、元老院に戦争の続行を伝えた。
11月14日、フランス軍は既に放棄されたオーストリアの首都ウィーンに入城した。16日にシェーンブルン宮殿を発って北に軍を進め、20日にはブリュン(現在のチェコのブルノ)に到着し、ここで来たるべきオーストリア・ロシア連合軍の主力との戦闘に備えた。
ウルムの戦いは歴史上、最も重要な戦略的勝利の例の1つであると考えられている。ウルムの戦いでは大きな戦闘はほとんど発生しなかった。オーストリアはマレンゴの戦いでナポレオンが仕掛けたのと同じ罠に陥り、大敗を喫した。この戦いで、大陸軍はほとんど損害を受けなかった。
アウステルリッツの戦いと同様、ウルム戦役はいまなお世界中の士官学校で教えられている。
参考文献
- 『歴史群像シリーズ48 ナポレオン 戦争編』
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ウルムの戦い
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詳細は「ウルムの戦い」を参照 10月13日にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団は東からメミンゲンに向かっていった。16日に小さな衝突が生じ、フランスの損害は16名に対し、カール少将を含む4600名の兵士が降伏し、8つの野砲と9つの軍旗を獲得した。オーストリア軍はウルムから遮断されたため、弾薬不足に陥り、司令部の混乱のために士気が完全に低下していた。 14日に更なる行動が行われた。ヴェルネックでのオーストリアの攻撃時に、丁度ミュラの軍がオールベックのデュポンの部隊に加わり、攻勢を撃退した。ミュラとデュポンは北のハイデンハイム(英語版)方面へ逃れるオーストリア軍を叩きのめした。15日の夜に、フランスの2個軍団はウルムの外側のミヒェルスベルクのオーストリア軍の野営地の近くに駐在していた。この時マックは危険な状況に置かれていた。もはや河の北側に逃れるすべはなく、マルモンと親衛隊(英語版)が河の南側からウルムの周辺に陣取っており、スールトがオーストリア軍のティロル方面への撤退を防ごうとメミンゲンから北上していた。問題はこれだけに留まらず、オーストリアの司令官のフェルディナントがマックの指示を無視し、6000名の全ての騎兵に対してウルムから逃れるよう命令していた。しかしミュラの追撃は非常に効果的で、11個騎兵大隊のみが、ハイデンハイムのヴェルネックの部隊に加わる事ができた。ミュラはヴェルネックへの攻撃を続け、10月19日にトロイヒトリンゲンにて8000名の兵士が降伏した。ミュラはオーストリアの野営地から500の荷車を奪い、ノイシュタット・アン・デア・ドナウ(英語版)方面へ向かいながら掃討を続け、12,000名のオーストリア兵を捕らえた。 10月15日にネイの軍団はミヒェルスベルクの野営地に突撃を行い、16日にフランス軍はウルムへの砲撃を開始した。オーストリア軍の士気は低く、マックはもはや救援の見込みが無いことを悟った。10月17日、マックはもし25日までに増援が来なかった場合、オーストリア軍が降伏する事を取り決めた文書に同意し、ナポレオンの使者であるセギュールと共にサインをした。しかしマックの耳にハイデンハイムとネーレスハイムでの降伏の知らせが徐々に入ってきたので、降伏を5日早めて、20日に降伏することに同意した。1500名のオーストリアの守備隊はかろうじて逃れたが、大半のオーストリア軍は10月21日に、武器を置いて、大陸軍に半円形に整列させられ、降伏した。将校は捕虜交換が行われるまで、フランス軍に対して武器を取らないことに合意した仮釈放状に署名し、去ることを許可された。この合意には10名を超える将官が含まれており、その中にはマック、ヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)、バイエ・デュ・ラトゥール伯マクシミリアン・アントン・カール(英語版)、リヒテンシュタイン公とイグナツ・ギュライも居た。
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