第四次対仏大同盟
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第四次対仏大同盟(だいよじたいふつだいどうめい、Fourth Coalition, 1806年10月9日 - 1807年7月7日)は、ナポレオン1世のフランス帝国による覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟である。この同盟にはプロイセン王国、ロシア帝国、ザクセン王国、スウェーデン、イギリスが参加した。この同盟の加盟国の中には第三次対仏大同盟で過去にフランスと交戦したことがある国もあり、ほとんど平和な期間を置かずに戦争状態に突入した。1806年10月9日にプロイセンはオーストリア帝国の敗北とライン同盟の形成によるフランスの強大化を恐れ、新たに形成された同盟に加入した。プロイセンとロシアは戦いに備え動員を行い、プロイセン軍はザクセンに集結した。
- ^ Clodfelter 2017, p. 150.
- ^ a b Bodart 1916, pp. 128–129.
- ^ Hagemann 2015, pp. 33.
- 1 第四次対仏大同盟とは
- 2 第四次対仏大同盟の概要
- 3 同盟
- 4 関連項目
第四次対仏大同盟
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「第四次対仏大同盟」の解説
詳細は「第四次対仏大同盟」を参照 アウステルリッツの戦いはヨーロッパにおける勢力均衡を大きく変え、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだ。プロイセンは自国の安全保障に脅威を感じ、1806年にロシアと共にフランスに宣戦し、第四次対仏大同盟を結成した。1806年の秋に18万人のフランス軍がテューリンゲンの森を経由してプロイセンに侵攻した。この動きをプロイセンは察知しておらず、フランス軍はザーレ川の右岸と白エルスター川の左岸に沿って進んだ。10月14日にイエナ・アウエルシュタットの戦いで、ナポレオンは90,000名の軍と共にホーエンローエをイエナにて壊滅させた。更に27000名の第3軍団を率いたダヴーはカール・ヴィルヘルム・フェルディナントとフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が率いる63000名のプロイセン軍の攻撃をアウエルシュタットにて阻止して破った。フランスは北ドイツで激しい追撃によりプロイセン軍の残党は掃討した後、ポーランドに進攻し、プロイセンを救援できなかったロシア軍と邂逅した。 1807年2月にアイラウの戦いでロシア軍とフランス軍の間で激しい戦闘が行われたが決着は付かなかった。ナポレオンはこの戦いの後、軍を再編成し、数ヶ月間ロシア軍を追いかけ、1807年6月14日にフリートラントの戦いが行われた。この戦いでフランス軍はロシア軍を潰走させた。その結果7月にティルジットの和約が結ばれ2年の流血に終止符が打たれ、フランスはヨーロッパ大陸で支配的な地位を占めるようになった。一方プロイセンは著しく弱体化し、フランス・ロシアの両国によってヨーロッパの各国間の問題が解決されるようになった。
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