米英戦争
米英戦争 (1812年-1815年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 05:40 UTC 版)
「アッパー・カナダ」の記事における「米英戦争 (1812年-1815年)」の解説
米英戦争の間、アッパー・カナダは防御が弱く、アメリカから移住者が多く居たためにアメリカの主要な目標になった。しかしアメリカ合衆国内の分裂、ピリッとしないアメリカの民兵、能力の落ちるアメリカ軍の指揮官、それにイギリス軍指揮官アイザック・ブロックの素早く思い切りの良い行動によって、アッパー・カナダを北アメリカイギリスの一部として守り続けた。 イギリス軍は1812年8月6日にデトロイトを占領した。ミシガン準州はイギリス軍の支配下におかれ、1813年にイギリス軍が放棄するまで続いた。 アッパー・カナダ領内で戦われた戦闘は次のようなものがあった。 クィーンストン・ハイツの戦い、1812年10月13日 ヨークの焼き討ち、1813年4月27日 ジョージ砦、1813年5月27日 ストーニー・クリークの戦い、1813年6月5日 ビーバー・ダムズの戦い、1813年 エリー湖の湖上戦、1813年9月10日 テムズの戦い、1813年10月5日 クライスラー農園の戦い、1813年11月11日 ニューアーク焼き討ち、1813年12月10日 チッパワの戦い、1814年6月5日 ランディーズ・レーンの戦い、1814年7月25日 アメリカ領内のアッパー・カナダ境界である北西部領土(ほとんどは今日のミシガン州)、ニューヨーク州北部および五大湖でも、多くの戦いが行われた。 1815年に批准されたガン条約で戦争が終わり、両国とも元の状態に戻すことで合意された。
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