ベトナム戦争とは? わかりやすく解説

ベトナム戦争

読み方:ベトナムせんそう
英語:Vietnam War

「ベトナム戦争」とは、南北ベトナム統治巡って1954年~1975年までの凡そ21年間にわたり継続され一連の紛争のことである。「ベトナム戦争」に関する開始時期終了時期をいつとみなすかについては所説ある。

ベトナム戦争の概要

ベトナム戦争とは、南北ベトナム統治をめぐる戦争である。南ベトナムアメリカ合衆国北ベトナムソビエト社会主義共和国連邦ソ連)の支援受けていたため、実質米ソ始めとする資本主義陣営社会主義陣営代理戦争ともいえる。べトナム戦争1954年ジュネーブ協定によって南北ベトナム分断されたことが遠因となって以降様々な軍事衝突繰り返され北ベトナム軍主力とする解放勢力戦車隊サイゴン無血入城することで勝敗決まったのは1975年4月30日である。南ベトナムサイゴン陥落を受け、北ベトナム勝利決定した20年上もの続いた戦争の結果ベトナム始めとする世界各国から、数百万人もの死者出た

南北ベトナムの建国

1945年に、第二次世界大戦終結した当時ベトナム一帯日本軍によって占領されていた。しかし、敗戦を受け日本軍撤退した。これを受けて1945年ホー・チ・ミンのもと、北ベトナムベトナム民主共和国建国された。しかし、ベトナム全土スムーズに統一されというわけではない。1955年には、ゴ・ディン・ジエムベトナム南部ベトナム共和国建国した。以降ベトナム南北分かれ統治めぐってを争うことなる。なお、当時南部には反政府活動支持する人々多数存在していた。1960年に、北部ベトナム民主共和国は、南部ベトナム共和国支配から解放することを表明し、「南ベトナム解放民族戦線」を結成した

アメリカ軍による戦争介入

1961年になると、当時アメリカ大統領ケネディが、南ベトナム援軍派遣当初アメリカ積極的に戦争関与していなかった。しかし、状況大きく変わったのは、1964年トンキン湾事件である。北ベトナムアメリカ軍艦隊魚雷攻撃しかけたことで、アメリカ軍戦争介入本格的なものとなったのだ。当時南部には南ベトナム解放民族戦線ゲリラ軍が潜んでおり、アメリカ軍との戦い熾烈極めていた。そこで、ゲリラに対して有利になるべく、アメリカ軍取った策が枯葉剤散布だ。枯葉剤を使う目的は、森林絶やしてゲリラ軍を見つけやすくするとともに、彼らの生活を支え農作物枯らすことでもあった。枯葉剤1961 年から10年程にわたり散布されたが、ゲリラ軍だけではなくアメリカ軍ベトナム民間人への健康に著しく影響与えることとなった

サンゴン陥落

1964年に、ソ連北ベトナムへの軍事支援表明し北部軍事力増強されることとなる。加えて1965年アメリカ北ベトナムへの空爆開始このように資本主義勢力社会主義勢力バックアップのもと、戦争激化していった。しかし、メディア活発に戦地様子世界発信したことで、反戦をもとめる声はしだい高まっていく。そして、1973年パリ協定により、ついにアメリカ軍ベトナムから撤退決めた南ベトナム軍勢い弱まり1975年にはついにサイゴン陥落戦争終結した

ベトナム社会主義共和国の誕生

ベトナム戦争は、南北ベトナム争いという超え世界資本主義・社会主義陣営戦いであった。巨額資本投入され負傷者死者ともに歴史的な人数となった戦争終結後も、トラウマ抱えて日常生活戻れなかった人もいる。戦争終結後1976年ベトナム民主共和国ベトナム社会主義共和国に名を変えたアメリカとの国交正常化経てASEANにも加盟経済成長著しい。なお、ベトナム国民半数30歳未満労働力期待をした世界各国が、ベトナムへ事業展開を検討している。

ベトナム戦争で浮き彫りとなった問題1つに、枯葉剤のような化学兵器恐ろしさ挙げられる枯葉剤には、毒性の強いダイオキシンなどが含まれ植物だけではなく生物多大な影響を及ぼす当時枯葉剤曝露しとされるベトナム人数多い。しかも、土壌残留する汚染物質影響で、戦争集結してから時間がたっても、いまだに先天性の異常を抱えて生まれる子どもも少なくないベトナム含め各国協力し土壌浄化作業にあたっていく必要がある2019年から浄化能力試験が行われ、土壌洗浄したのちに熱処理をすることで、汚染物質高確率分解されることがわかっている。そして、2020年には、土壌浄化作業スタートすることになっている



ベトナム戦争(べとなむせんそう)

アメリカ北ベトナム爆撃して拡大していった戦争だ。当時北ベトナムソ連中国支援受けていた。これに対しアメリカ南ベトナム支援していた。1965年社会主義拡大恐れたアメリカは、この北ベトナム攻撃したアメリカは「北ベトナムはすぐに降伏する」と思っていたのだ。

ところが、予想外に戦争長期化した。北ベトナムは、アメリカが思う以上に強敵だった。ついにはベトナム戦争はゲリラ戦になった。そして、ジャングルでの戦い始まった民間人軍人も関係なく、子供までもが戦争巻き込まれた。北ベトナム兵士は、ジャングル隠れてアメリカ攻撃した

そこで、アメリカ枯葉剤空中から散布しベトナム森林破壊しようとした。「ベトナムまるはだかにして兵士隠れところをなくそう」としたのだ。しかも、この際使用され枯葉剤には、猛毒ダイオキシン含まれていた。このあとベトナムでは奇形児障害児がたくさ生まれようになった

しかし、そんなにしても、アメリカはベトナム戦争で勝利をあげることができなかった。というのは、内外反対運動経済的負担のために、アメリカ戦争続けられなくなったのだ。1973年1月27日ベトナム和平協定調印される。 そして、その2ヵ月後の3月29日 ベトナムからアメリカ軍撤収完了したアメリカはベトナム戦争に「敗北」したのだ。

アメリカがいなくなったあと、ベトナム北ベトナムによって統一された。これが現在のベトナム社会主義共和国だ。

(2000.10.14掲載


ベトナム戦争(1964年 - 1972年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/10 14:00 UTC 版)

フレデリック・ウェイアンド」の記事における「ベトナム戦争(1964年 - 1972年)」の解説

1964年ハワイ駐屯している第25歩兵師団師団長就任。ウェイアンドは第25歩兵師団長としてベトナム派遣され1965年から1966年まで戦った1967年第25師団長の職を退きベトナム第2野戦軍副司令官となり、後に司令官代行経て司令官に就任した。第2野戦軍ベトナム共和国陸軍ARVN, 南ベトナム陸軍)が指定する第3軍団戦術区(英語版)(サイゴンなど11の省)の防衛について責任負っていた。1968年予備役軍局(英語版)(Office of Reserve Components)の局長就任。 ウェイアンドは情報将校としての長年経験から、ウィリアム・ウェストモーランド将軍提唱する従来型戦術には反対していた。彼は「ベトナムにおける勝利の鍵とは、南ベトナム集落確保および平定にある」(the key to success in Vietnam was in securing and pacifying the towns and villages of South Vietnam)と主張していたという。 1969年ヘンリー・C・ロッジ大使軍事顧問としてパリ平和会談随行1970年戦力開発担当参謀長補に就任同年中に南ベトナム軍事援助司令部(MACV)副司令官に就任1972年6月30日よりクレイトン・エイブラムス将軍後任としてMACV司令官に就任1972年末まで、ウェイアンドはアメリカ軍ベトナム撤兵監督する立場にあった

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ベトナム戦争 (1960・70年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

ヘリボーン」の記事における「ベトナム戦争 (1960・70年代)」の解説

1960年代初頭より、アメリカ合衆国南ベトナム支援して軍事介入開始しており、1961年には、パイアセッキH-21装備する陸軍第8・57輸送中隊ベトナム派遣されて、南ベトナム軍部隊空輸してのヘリボーン作戦開始された。その後介入順次拡大されていき、1965年陸軍派遣開始とともに10月には第1騎兵師団ベトナム到着した。 同師団空中機動師団改編された直後であり、OH-13観測ヘリコプター90機、UH-1汎用ヘリコプター290機、CH-47輸送ヘリコプター50機を装備し、更にCH-54輸送ヘリコプター臨時配属されていた。この莫大な空輸能力により、師団独力で一度に4,000名以上の兵員空輸する能力があり、歩兵だけに留まらず騎兵偵察)、砲兵、更に支援部隊までもをヘリボーン展開することができた。すなわち、史上初の「空中機動可能な諸兵科連合部隊であった熱帯雨林での森林戦という、機動力大きく制約される作戦環境に対してヘリボーン極めて有効であり、特に対ゲリラ作戦として展開されていた索敵撃滅 (Search and destroy) 作戦重要な役割担った。これは神出鬼没共産軍部隊を捕捉するための戦法で、各地小兵力のパトロール隊を多数展開して共産軍部隊と接触した場合にはただちに主力部隊ヘリボーンで展開させ、これを撃滅するというものであった。この作戦によってゲリラ優位性大きく減殺され、1967年は「南ベトナム側がベトナム戦争に勝利を収めるチャンスがあった最初で最後の年」と称された。 その後1968年テト攻勢転機としてベトナミゼーションが進むなかで、1971年2月には、ホーチミン・ルート遮断して南ベトナム独力で戦争継続支援するため、700機以上のヘリコプター動員してラオス領内50キロ侵攻するというラムソン719作戦決行された。これはベトナム戦争で最大ヘリボーン作戦であったが、北ベトナム軍反撃、特に1,000基もの対空兵器直面して100機以上のヘリコプター喪失し失敗した

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ベトナム戦争(ベトナム)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 14:32 UTC 版)

森林戦」の記事における「ベトナム戦争(ベトナム)」の解説

整備され道路のない森林地域戦車装甲車などの車両進入拒み迫撃砲航空機による支援攻撃精度を落とす地形であり、近代的な兵器がうまく機能せず、歩兵主力戦闘となることが多い。この場合正規軍隊にとってはありがたくないのであるが、ゲリラにとってはいくつかの点で優位に立つ。 森林地域、特に熱帯雨林における気候兵士たち士気大きく削ぎ、健康を害する。ベトナム戦争では、作戦地域環境慣れていない兵士たちにとって作戦地域気候による熱帯雨林特有の病気害虫ぬかるんだ地面移動高温多湿による熱中症などさまざまな障害は強いストレッサーとなった強度戦闘ストレスによって戦闘ストレス反応原因となる危険性があり、士気や団結の低下規律弱化などになりうる。

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