南ベトナム解放民族戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/03 03:38 UTC 版)
![]() | この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
南ベトナム解放民族戦線 Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam | |
---|---|
ベトナム戦争に参加 | |
![]() 南ベトナム解放民族戦線の旗 | |
活動期間 | 1960年 - 1976年 |
活動目的 | サイゴン政権からの南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一 |
指導者 | グエン・フー・ト |
活動地域 | 南ベトナム |
関連勢力 | 北ベトナム、ソ連、北朝鮮、中国などの東側諸国 |
敵対勢力 | 南ベトナム、アメリカ、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランドなどの西側諸国 |
南ベトナム解放民族戦線(みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん、ベトナム語:Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam / 𩈘陣民族解放沔南越南)は、南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・反米・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。ベトナム解放戦線、南ベトナム解放戦線とも呼ばれる。
略して解放戦線とも呼ばれたが、ベトナムコンサン(ベトナム語:Việt Nam Cộng sản / 越南共産)を略したベトコン(ベトナム語:Việt Cộng / 越共)と通称されることも多い。
呼称について
英語での正式な名称は「Liberation Army of South Vietnam」や「National Liberation Front for South Vietnam」、あるいは「the National Front for the Liberation of South Vietnam[1]」であり[2]、その略称は NLF(National Liberation Front)である。したがって「南ベトナム民族解放戦線」という日本語表記も使われた[3]。
「ベトコン(英語: Vietcong)」という名称は元来、アメリカ合衆国とベトナム共和国側による蔑称だったもので、ベトナム共和国の大統領であったゴ・ディン・ジエムが、その名付け親といわれる。日本でも、報道などを通じて入ってきたものが一般化した。
中国共産党が「中共(拼音: ツォンコン)」を正式な略称としているのに対し、ベトナム労働党及びベトナム共産党が正式な略称として「ベトコン(ベトナム語:Việt Cộng / 越共)」を自称したことはない。政治団体・統一戦線組織としての略称は「解放戦線(ベトナム語:Mặt trận Giải phóng / 𩈘陣解放)」、その軍事部門の通称は「解放軍(ベトナム語:Giải phóng quân / 解放軍)」である。「解放勢力」の訳語は、「軍」を意味する英語の force を「勢力」と訳したものである。
またベトナム戦争期を中心に「南ベトナム民族解放戦線」という日本語表記も使われていたが、これは誤訳である[要出典]。「民族戦線」はコミンテルンが創始した人民戦線という抵抗方針のベトナム版であり、共産主義者だけでなく民族主義者、愛国者も含めた統一戦線で、ベトナムの独立/統一を目指そうという意図があった。
アメリカ兵は「Vietnamese Communist」(ベトナムの共産主義者)の頭文字をとった「V.C.(ヴィー・シー)」、もしくはVとCのNATOフォネティックコードであるヴィクター・チャーリーの後半をとったチャーリーと呼んだ。
概要

1950年代後半のベトナム共和国は政情が不安定であり、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などが生じていた。ゴ・ディン・ジエム大統領に反発する勢力も増加していた。また、北ベトナムはジュネーヴ協定に基づく統一選挙が実施されなかったため、武力闘争によるベトナム統一を検討し始めた。
これらにより、1960年12月20日、タイニン省タンビエン県タンラップ村[4]において、元ベトミン(ベトナム独立同盟会)らを中心に南ベトナム政府に対する反政府組織として、南ベトナム解放民族戦線が結成された。議長は空席のまま、副議長兼書記長をフイン・タン・ファットが務めた。1962年2月16日-3月3日、戦線の第1回大会が開催される。この大会で中央委員会が設置され、31人が選出された[5]。また、弁護士のグエン・フー・トが中央委員会幹部会議長に選出された。解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、ジエム政権などに反発する仏教徒や自由主義者、華僑なども多数参加していた。これにより、ベトナム共和国国内に内戦状態が発生し、ベトナム戦争が始まった。南ベトナム軍の他、アメリカ軍・韓国軍などと戦ったが、圧倒的かつ近代的な戦力を有する敵に対してゲリラ戦で臨み、一定の損害を与えた。弾薬や燃料以外の補給体制が極めて貧弱であったが、農村を遊撃根拠地とすることで、物資の現地調達(略奪含む)や現地徴兵により長期戦を戦った。
しかし、捕虜となった米兵や南ベトナム兵を過酷に虐待し、サイゴン政権の情報員や密告者とみなした市民や動揺分子とみなした兵士を人民裁判で即刻処刑するなども行い、テト攻勢でフエを一時占領した際にもサイゴン政権の官吏・関係者・関係の無い民間人(学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民)などを大量処刑し、無差別テロを行った(フエ事件)。また、南ベトナム政権に揺さぶりをかけるため、各地で一般市民を巻き込む無差別爆弾テロ事件も数多く起こした。
1968年2月12日のフォンニィ・フォンニャットの虐殺は南ベトナム解放民族戦線による謀略であるとする主張が韓国軍からなされているが、韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モアヘッド・クック陸軍大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された。
ベトナム統一後の1977年1月23日、グエン・フー・ト議長が機関紙を通じて「南ベトナム解放民族戦線は歴史的役割を輝かしく完遂した」と宣言。名実ともに組織が解消されることとなった[6]。
隣国のカンボジアでは親中のポル・ポト政権が誕生し、中国がベトナム南部への干渉を図ったことで、北ベトナム政府が、中国の影響力が強い南部独自の軍事力が干渉を受ける危険性を危惧して、軍事部門はベトナム人民軍(北ベトナム軍)に吸収し、組織は「ベトナム祖国戦線」に合流する形で解体した。 解放戦線の幹部達は、グエン・フー・トが国家主席代理や国会議長となり、グエン・ヴァン・リンがベトナム共産党書記長となり、ヴォー・チ・コンがベトナム国家評議会議長(現国家主席)となり、フイン・タン・ファットやグエン・ティ・ディンがベトナム国家評議会副議長(現国家副主席)となり、グエン・ティ・ビンが国家副主席となるなど人事面では厚遇された。
構成
1960年12月の結成大会時は、暫定執行委員会が指導部の役割を果たし、委員長と総書記が置かれた[7]が、議長は空席とされた。
1962年2-3月、第1回全国大会が開催され、52人で構成する中央委員会と、最高機関としての幹部会が設立され、幹部会議長、幹部会副議長の職が置かれた。また、書記局が設立され、書記長職が置かれた[8][9]。
中央委員会の付属機関として、軍事委員会、公共保健衛生委員会、情報・文化・教育委員会、対外関係委員会、経済問題委員会、通信・電機委員会が設けられた[10]。
参加組織
戦線は諸抵抗組織の緩やかな連合体であり、以下の政党・団体等が参加した[8][11]。
- 政党
- ベトナム人民革命党 - 1962年1月1日に結成されたマルクス・レーニン主義政党。北のベトナム労働党のカモフラージュ政党とされる。議長はヴォー・チ・コン。
- 南ベトナム急進社会党 - 1961年に結成された愛国的知識人の政党。
- 南ベトナム民主党 - 1944年に結成された民族ブルジョワジーとプチ・ブル政党。議長はフイン・タン・ファット。
- 大衆団体
- 解放労働者協会
- 解放農民協会
- 解放婦人連合会
- 解放学生・生徒連盟
- 解放青年同盟
- 人民革命青年団
- 解放作家芸術家協会
- 愛国民主ジャーナリスト協会
- 旧抵抗戦士協会
- 愛国軍人家族会
- 解放赤十字社
- 宗教団体
- 南ベトナム仏教会
- 愛国キリスト教徒協会
- ホアハオ教
- 諸派
- アジア・アフリカ連帯ベトナム委員会
- 民主法律家協会
- タイグエン少数民族自治運動
- その他
徴兵制
支配下とした地域において徴兵制を採っていたが、長年続く戦乱に若者の兵役に対する意欲は低く徴兵忌避が相次いだ。このため1965年からは徴兵対象を15歳以上の男女とし、新兵補充の強化を行った[12]。
脚注
- ^ “Struggle For National Liberation | Embassy of Vietnam in South Africa” (英語). 2024年8月7日閲覧。
- ^ 小項目事典, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典. “南ベトナム解放民族戦線(みなみべとなむかいほうみんぞくせんせん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年8月7日閲覧。
- ^ “民族(ミンゾク)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 株式会社DIGITALIO. 2024年8月7日閲覧。 “民族は,たとえばnation,national group,ethnic group,ethnographic group(英語),Nation,Nationalität,Volk,Völkerschaft,Volkstum(ドイツ語)などの用語によって表意されてきた。”
- ^ 福田 2006, p. 216
- ^ 小倉 1992, p. 95
- ^ 解放戦線の役割終結を宣言『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月27日朝刊、13版、7面
- ^ タン 1987, p. 91
- ^ a b 小沼 1988, pp. 234–235
- ^ タン 1987, p. 98
- ^ 小沼 1988, p. 234
- ^ 小沼 1988, p. 231
- ^ 「兵役忌避にあの手この手 政府側・ベトコン、徴兵に支障」『日本経済新聞』昭和40年7月14日夕刊2面
参考文献
- チュオン・ニュー・タン『ベトコンメモワール - 解放された祖国を追われて』原書房、1986年5月。NDLJP:12180014。
- 小沼新『ベトナム民族解放運動史』法律文化社、1988年。
- 小倉貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』岩波書店、1992年。
- 福田忠弘『ベトナム北緯17度線の断層―南北分断と南ベトナムにおける革命運動(1954~60)』成文堂、2006年。
関連項目
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 04:31 UTC 版)
「ディエンビエンフー (漫画)」の記事における「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」の解説
姫/「お姫さま(プランセス)」 角川書店ゲリラの少女。11歳で正確な名前は単行本1巻の時点では不明。頭にネックレスのような飾りを付けている。可愛い少女の外見とは裏腹に、身体能力、戦闘能力は人間離れしたものであり、鮮やかかつ華麗に米兵達を皆殺しにしていく。しかし何故かヒカルだけは殺さなかった。「ンクク」と笑う癖がある。おばあちゃんからは「ハイバ・チュン」とも呼ばれている。 小学館ゲリラの少女。頭にネックレスのような飾りをつけており、髪型はツインテールと頭の上で髪をわっかにしている。笠を被っていることが多い。身体能力、戦闘能力が高い。メインの武器はナイフ。また、罠を作る腕もかなりのもの。ヒカルを気に入っているらしい。「ンクク」という特徴的な笑い方をする。DBPP vol.7のフンのインタビューによれば「しゃべれない娘」とのこと。 誕生日は1954年の5月7日、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍の要塞が陥落した日である。3歳の頃からおばあちゃんの戦闘指南を受けている。ヤーボに敗北した後、新たに「ハイバー・チュン・アタック」という技 を身につけるべく、ヒカル達と離れておばあちゃんから秘密教練を受ける。テト攻勢の際にヒカルと再会したがヒカルがロンに対して優しい側面を見せたためショックを受け一時離脱したが、ティに促され、ヒカル救出のため再び戦線に戻るため帰国の途についた。 双葉社(TRUE END)仮面をつけ変わり果てたティムと対決、そしてヤーボ大佐も加わり2人の連携攻撃で倒れ、おばあちゃんがタイマンでヤーボ大佐の相手をすることに。 ヤーボ大佐死亡後、「ハノイ・ヒルトン」にて収容されていたヒカルと逢瀬を重ねていた。「ハノイ・ヒルトン」ヒカルが脱出後にティムと行動していた時も度々会っており、性行為を行なっていた。その姿をティムに見られ、ティムと対決することになるが、勝利する。 おばあちゃんが使用していたグエン朝 初代皇帝ザーロンの剣である仕込み杖を受け継ぐが、おばあちゃんがヒカルの命を狙い、強制送還させようとした為、ヒカルをかけておばあちゃんと戦うことになる。その際にヒカルとの子供を授かっているのではないかとおばあちゃんに指摘され、お腹の子を堕ろそうと攻撃される。おばあちゃんを敗し、強制送還されそうになるヒカルを助けに行き、ヒカルと再会を果たすも、ヒカルと共に米軍の爆撃をくらい死亡。 おばあちゃんとの戦い前に、ヒカルとの子供を授かり秘密裏に産んでいた。命を狙われる危険があった為、ニューに預けていた。 おばあちゃん 角川書店ゲリラの老婆。「姫」の戦術の師匠である。ホー・チ・ミンを子供扱いしている。語尾に「ド」を付ける。 小学館「お姫さま」の祖母にあたる人で、凄腕の戦士。ホー・チ・ミンやボー・グエン・ザップをガキ呼ばわりし、党にもベトコンにも縛られない存在。口癖のように「アン・ドゥ・トロワ」を繰り返す。語尾に「ド」を付ける。漢詩もたしなむらしい。ディエンビエンフーの際には前線で銃を使って戦い、成果をあげる。軍の人間からは恐れられている存在であり、お姫さまですら敵わない相手。 俊敏な動きで残像を発生させたり、巨大な爆弾を素手で掴んだりするなど、とても人間とは思えない行動をすることもある。 20代の頃、昼はフランス領事館でメイドとして下働きし、夜は来るべき革命に備え暗躍していた。クォン・デ候と出会い恋に落ちた。 1978年の時点でなお存命かつ現役 であり、カンボジア侵攻に参加する描写がある。 双葉社(TRUE END)変わり果てたティムを救出しようとしたヤーボ大佐と遭遇。お姫さまが相手にするも敗した為、ヤーボ大佐とタイマンで対決。勝利し、ヒカルとティムを「ハノイ・ヒルトン」に収監した。北ベトナム労働党から査問にかけられ危険人物と認識され、命を狙われることになる。 米軍の完全撤退と共にヒカルの命を狙い、強制送還させようとするが、お姫さまと対決することに。 ヒカルとお姫さまの死後、ニューからお姫さまが秘密裏に子供を産んでいたことを知る。ニューに母親になるよう言うが断られた為、お姫さまの子供を育てることとなった。 ズオン 隻眼の仏教徒。殺生を好まない、心優しい男性。戦闘によって、自身が修羅と化してしまうのを恐れている。主な武器は銃。 戦争が終わったら焼身自殺を図ろうと思っており(アオザイ通信#24)、小学館版の55話で、ノルの不始末の責任を取って焼身自殺を遂げた。TRUE ENDでは過去の戦っている姿のみ確認できる。 黒い三連華 ズオンの弟子である3人の姉妹からなる女性戦士隊。ただしそれぞれ孤児でズオンに拾われ育てられたため、血は繋がっていない。 今時の女子のようで、「パねぇ」などという言葉を使い、おばあちゃんを困らせている。 ズオンに拾われたその日から戦争に勝利するために恋も夢も捨てると決意している。 彼女らが活躍する小学館版の第二部が廃刊してしまった為、TRUE ENDでは過去の戦っている姿のみ確認できる。 TRUE ENDではおばあちゃんがノル率いるパンツァー部隊の生き残りに命を狙われる為、ロンとノルは小学館版同様亡くなっている模様。ロン 長女で18歳。眼鏡を掛けている。隠密決死隊(蒼龍)を率い、肉弾戦を得意とする。 ヒカルのことを「オナニー猿」と呼んでいるが、密かにヒカルを想っていた。 小学館版第二部では、テト攻勢にてパワーアップしたライトニングとの戦いで自爆し重傷を負う。想いを知ったヒカルにキスをされて涙を流し死亡した。 ノル 次女で16歳。長髪長身。パンツァー突撃少女隊(飛龍)を率い、RPG対戦車砲が武器。 女の子からもモテるが、人を愛することを知らなかった。 小学館版第二部では、パワーアップしたライトニングについては、目の前でロンを殺された憎しみと一目ぼれした恋心の両方を抱いている。 それが災いし、ライトニングにつけこまれ、フエで性行為に及んだ挙句、激怒したズオンに殺されてしまう。 ティ 三女で10歳。お団子頭。半目で口癖は「にゃ~」。 ノル曰く「ぽやっとして男ウケが良く、ナンパされてどこでもトコトコついていきそう」とのこと。 小学館版第二部では、テト攻勢時はバアちゃんの密命で単独行動し、任務完了。黒人のアメリカ軍脱走兵との間に子供が出来たため、戦線離脱。 ヤスクニ提督 小学館版第二部で登場。ベトナムに残留した元日本兵。ベトコンに加わることでアメリカに対する自身の戦争を継続しようとする。主な武器は「陛下」(昭和天皇)より賜ったという軍刀。実は旧日本軍における任務は「飯炊き係」であり、そのため彼が作る日本風カレーの味は絶品。 テト攻勢においては、緒戦のアメリカ大使館襲撃で「赤城」チームのリーダーをつとめ獅子奮迅の働きをするが、パワーアップしたライトニングとの戦闘で苦戦し、テト攻勢の失敗によりフエに撤退する。 ソンミ村の虐殺に遭遇し、軍刀を抜こうとするが錆びて抜けず、アメリカ兵に狙撃される。最期はヒカルに止めを刺してもらって戦死。
※この「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」の解説は、「ディエンビエンフー (漫画)」の解説の一部です。
「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」を含む「ディエンビエンフー (漫画)」の記事については、「ディエンビエンフー (漫画)」の概要を参照ください。
「南ベトナム解放民族戦線」の例文・使い方・用例・文例
- 南ベトナム解放民族戦線のページへのリンク