南ベトナムの監督の委任
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「マスタードム作戦」の記事における「南ベトナムの監督の委任」の解説
1945年7月、ポツダムにて連合国首脳陣による協議が行われ、インドシナ半島に展開する日本軍の降伏に関連し、北緯16度線を境界とした半島北部の監督を蔣介石(中華民国)、南部の監督を東南アジア地域連合軍(英語版)(SEAC)総司令官ルイス・マウントバッテン(イギリス)に委任した。連合各国はフランスがフランス領インドシナの正当な領有国である点について合意していたが、大戦を通じて枢軸国に国土の大半を占領されたことで植民地を支配するだけの国力を喪失しているとも考えられていた。このため、再進駐を行うフランス当局を支援するべく英印軍がインドシナ半島に派遣されることとなったのである。当時、イギリス陸軍は徴兵制を採用していたこともあり、アジア方面での終戦を受けて早期の復員を求める圧力が高まっていた。そのため、SEACでは主に志願兵から成る英印軍を主力として戦後処理のための諸任務を実施しなければならなかった。しかし、SEACとイギリス本国政府、そして英印軍上層部の間にあった、英印軍の目的や権限に関する認識の大きな隔たりは、その後の作戦の混乱に繋がった。 マウントバッテンはサイゴンに派遣する連合国委員会(英語版)(占領行政当局)、および歩兵を主力とする仏印連合地上軍(Allied Land Forces French Indochina, ALFFIC)の編成を命じた。これらの組織はサイゴン周辺における治安維持および日本軍部隊の武装解除、連合国軍捕虜の解放および支援をその任務と定めていた。 委員会当局の関心は、もっぱら東南アジアにおける日本陸軍司令部の解体と連合国軍捕虜への人道支援に向けられていた。委員会議長には英印軍第20インド師団(英語版)長ダグラス・グレイシー(英語版)少将が選ばれ、第20師団の下級編成であるD・E・ターントン准将(D.E. Taunton)指揮下の第80旅団(英語版)が最初のALFFIC所属旅団としてベトナムへ派遣されることとなった。
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