ベトナムへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 02:55 UTC 版)
「ミッドウェイ (空母)」の記事における「ベトナムへ」の解説
ミッドウェイは1971年5月18日に再びベトナムへ戻り、ヤンキー・ステーション(Yankee Station)でハンコック (CV-19) に代わって同月末まで活動を行う。その後ヤンキー・ステーションを6月5日に出港し、10月31日に任務を完了、11月6日に母港へ戻った。 ミッドウェイは、第5空母航空団 (Carrier Air Wing 5, CVW 5) を乗艦させると、1972年4月10日に再びベトナムに向けてアラメダを出港する。5月11日にミッドウェイの艦載機はコーラル・シー (CV-43)、キティホーク (CV-63)、コンステレーション (CV-64) の艦載機と共に北ベトナムの港に機雷敷設を行う。1972年の夏を通じてミッドウェイはベトナムで作戦行動を行った。 1972年8月7日、ミッドウェイから発艦したHC-7 Det 110ヘリコプターはサラトガ (CV-60) からの探索機を支援し、北ベトナムへ不時着したパイロットの捜索作業を行った。サラトガからのA-7 コルセアIIは8月6日、ビン北西部、30km内陸地点で地対空ミサイルによって撃墜されていた。HC-7はパイロットを救助するため山地を飛行し、降下地点特定のためサーチライトを使用したことから激しい対空放火を受けたが、無事パイロットを救助、沖合の揚陸艦へ帰還するのに成功した。これは1968年以来北ベトナムへ最も深く入り込んだ救難ヘリコプターの飛行であった。HC-7 Det 110はその救助任務を継続し、1972年の終わりまでに48回の救助作業に成功した。これらのうち35回は戦闘状態の下に行われた。 一方、1974年に横須賀に寄港した際には、待遇の悪さから数十人規模の無許可欠勤、外泊が相次ぎ、一部は横須賀市内にあった「反戦ベトナム帰還兵の会」事務局へ駆け込み、堂々と乗艦拒否を宣言する者も現れた。乗艦拒否の理由として人種差別問題(ただし乗艦拒否者には白人も多数存在した)、横須賀の母港化で本国へ帰れない、艦内が老朽化して汚く就寝スペースなどが狭い、労働時間が他の艦船より長い、艦長が独裁的などといった理由が挙げられた。 1973年10月5日、ミッドウェイと第5空母航空団は横須賀に配属が決定し、日本における初の空母戦闘部隊として1972年8月31日に配備された。外国の港での乗員とその家族の士気要因に加えて、経済状況が空母運用の縮小を要求したため、極東における空母3隻態勢と相まってその動きは戦略的な重要性を持つことになった。
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