戦時下のベトナムへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 03:57 UTC 版)
1966年(昭和41年)9月、香港の興業の担当者から「サイゴンのクラブでショーをやってくれ」との誘いを受ける。ベトナム戦争の真っ只中のために、踊り子が誰も行きたがらず、真理子も「戦場で踊るなんてとんでもない」と断ったが拝み倒されて、1か月だけという条件で渋々了解する。 真理子は重さ100キロにはなるという舞台衣装を2つのトランクに分け、タンソンニャット国際空港からベトナム入りする。そこでは遠方に爆撃で舞う黒煙、重々しい地響きのような砲撃音、ロケット弾が夜空に舞うという戦場の光景を間近に感じながら、契約した高級クラブ、『バンカン』で着物を着ての日本舞踊や奇抜で派手なドレスを着てのダンス等のショーを演じた。客筋はアメリカの将校、各国の外交官、商社の人、ベトナムの政府関係者、実業家が主であった。当初は1か月という約束だったが、契約書は3か月となっており、半ば騙されたような形で滞在を引き延ばされたが、日本のサラリーマンの10倍もの高給にも魅力を感じ、日本に帰っても再び仕事があるという保証もないという理由のために現地に留まった。そして「1、2週間した頃から段々楽しくなってきたんです。いつ爆弾が落ちてくるかわからないという刺激的な生き方がここにはある」というサイゴンでの生活にのめり込んで行く。就労ビザが切れるとプノンペンまで行って査証を更新してベトナムへ再入国するということを繰り返した。一晩に2つのクラブを掛け持ちするというのが真理子の日課で、時には客と踊りの相手をすることもあり、その相手がピストルを忍ばせた南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)のスパイということもあった。
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