戦時下における地震被害の隠蔽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 22:56 UTC 版)
「昭和東南海地震」の記事における「戦時下における地震被害の隠蔽」の解説
当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。翌8日がマレー作戦・真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。地震についての情報は、3面の最下部のほうに申し訳程度にわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった。 『伊勢新聞』12月8日付朝刊は「天災に怯(ひる)まず復旧 震源地点は遠州灘」の見出しを付けたが県下の一部に被害が出たという極めて小さい記事となっている。一方、『伊勢新聞』の紀南版は地震の影響からか、8日付は「印刷機械その他故障のため休刊」となり、9日付は「全紀南地方に強震 津波による被害各地に発生」の見出しで「各地とも相当被害がある」としたが、死者数や流失戸数などには触れられていない。 被害を受けた各地の住民や、学徒動員され半田市の中島飛行機の工場で働いていた学徒らには、被害について絶対に人に話さないようにとする戦時統制に基づく通達の厳しい緘口令が行政側からまわった。そのため、他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となった。 一方、地震は各国の地震計により観測・記録された。そのため翌12月8日のアメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』はこの地震について大きく伝えた。ニューヨーク・タイムズは、12月8日付朝刊で「中部日本で悲惨な地震」として3面にわたる記事を掲載し、12月9日付で「日本政府は……大きな軍需施設が被害地区に含まれていることを認めながらも、被害を少なく見せようとしている」との記事を載せている。 この地震の状況を心理戦としてドラゴーンキャンペーン作戦として宣伝ビラ投下作戦をアメリカ軍が実行している(B29から投下された宣伝ビラには毛筆で「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という土屋嘉男の証言がある)。また、後述の津波被害の資料となるアメリカ軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場等の戦略拠点の被害状況を注視した。地震から6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている。
※この「戦時下における地震被害の隠蔽」の解説は、「昭和東南海地震」の解説の一部です。
「戦時下における地震被害の隠蔽」を含む「昭和東南海地震」の記事については、「昭和東南海地震」の概要を参照ください。
- 戦時下における地震被害の隠蔽のページへのリンク