戦争
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戦争(せんそう、英: war)とは、兵力による国家間の闘争である[1]。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは国際紛争の平和的解決である[2]。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、違法性が認定されてきた[3]。
注釈
- ^ 敵を完全に殲滅して敵国の抵抗力を徹底的に破壊する戦略。
- ^ ベイジル・リデル=ハートは『戦争に関する考察(Thoghts on War)』において戦争の原因は突き詰めれば心理的なものであると考え、全感覚(あらゆる方面における知覚)を用いて戦争を理解しなければ、戦争を防止する展望は持ち得ないと論じた[40]。
- ^ 戦争哲学の前提として戦争の原因論はその性質から観察者の哲学的・政治的・歴史学的・法学的な立場やバイアスなどに大きく関わる。例えば決定論の立場で戦争の原因論を考察した場合、あらゆる要因がその戦争の発生を決定付けているために人間は本質的に戦争に責任を持つことができないということとなり、原因は起因したそれら諸要素となる。
- ^ 国際政治学において侵略と認定する条件として、第一に武力行使、第二に先制攻撃、第三に武力による目的達成の意思、が挙げられており、自衛や制裁などの免責理由がないこととして価値中立的な定義としている。ただし、侵略の条件に「意思」が挙げられていることはこの定義の法律的性質を現すものであり、ある特定の価値観が存在していると指摘できる。そのため、軍事上の事実的行為として侵略は武力の先制使用であると考えられている[42]。
出典
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- ^ 「国際紛争の平和的解決」『国際法辞典』、118-119頁。
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戦時下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)
このころから段々と太平洋戦争の影が文学界にも影を落としてくる。世相が戦争に向かう中、国粋主義的傾向を強めていった。 1938年(昭和13年)11月から40日間、中国に旅行する。学生の時から親交のあった中山義秀が芥川賞をとったとき、審査員だった横光は「彼は今頃芥川賞をとるような男ではない。彼はとうの昔に立派な作家になっていた筈であった」と激励し、中山は泣き出し、会場ももらい泣きしたといわれる。
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戦時下
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「ロンドン地下鉄スタンダード形電車」の記事における「戦時下」の解説
路線延長を見込んで製造されたものの、新線建設が凍結されたために余剰となった200両近い車両が建設途上のハイノールト車庫に留置されたが、アメリカ軍がハイノールト車庫に進駐したことにより留置場所を失い、各駅の側線に余剰車両が留置されることになった。その他にも余剰となった車両はエッジウェア、ゴルダーズ・グリーン、ハイゲート、モーデン駅、ニーズデン(英語版)、スタンモアなどの収容力に余裕のある車両基地などに留置されていた。制御電動車の一部は灰色に塗装され、事業用に使用された。ドイツ空軍による空襲を避けるため、ロンドン地下鉄の各駅ホームには市民が避難しており、これら避難民に食料を配給する列車としてもスタンダード形電車が使用された。
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戦時下
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第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。 外国への留学時代に日本と諸外国との国力差を痛感した白洲は、当初から戦争に反対の立場を貫いていた。
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戦時下
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1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(後の「空の日」)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機や鹵獲機ポリカルポフI-16が飛行し、また陸軍航空部隊の戦闘機・爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画『日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。 1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐、軍用飛行場としても使用されることとなった。同年12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。 これ以降、終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国のほかに、日本軍が南方作戦で占領した勢力圏とした各地へ向けて、福岡第一飛行場を中継地とし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させた(徴用された大日本航空が委託運航)。目的地は香港のほか東南アジアのジャカルタ、マニラやシンガポール、ニューギニアのウェワク、ラバウルなどであり、日本軍占領前はイギリスやアメリカ合衆国、オランダなどの植民地であった。 また、南方作戦などで鹵獲されたアメリカ軍や中華民国軍、オランダ軍やオランダ領インド航空のボーイングB-17やカーチス・ライトP-40、ダグラス DC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を爆撃や機銃掃射する連合国軍機の爆撃目標となったため、飛行場内外に陸海軍が高射砲や高射機関砲を配置してこれに備えた。
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戦時下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 10:09 UTC 版)
「グレート・ウェスタン鉄道2301形蒸気機関車」の記事における「戦時下」の解説
第一次世界大戦中の1917年、62両の機関車がイギリス軍鉄道事業部(英語版)(イギリス軍の王立工兵(英語版)内の部署)に引き継がれ、フランスに送られた。これらの機関車のうち46両は1919年初夏にイギリスに返還されたが、残りの16両は1918年の初めにサロニカに送られた。2308号と5422号の2両はオスマン鉄道(英語版)に売却され、110号と111号に改番された。111は1929年9月に運行を退いたが、110は1950年代まで使用された。サロニカに残っていた14両の機関車のうち、5両は廃棄扱いとなり、残りの9両は1921年4月にイギリスに戻った。 第二次世界大戦が勃発すると、陸軍省はGWRから本形式の100両を接収し、GWRは廃車となったばかりの機関車数台を急遽復旧しなければならなかった。要求された機関車にはウェスティングハウス製のブレーキが取り付けられ、10両にはパニアタンクと凝縮ギアが取り付けられた。供出車はすべて黒く塗装され、陸軍省による番号が記された。1940年12月、陸軍省はさらに8両の機関車を要求した。 ドイツのフランス侵攻時には、接収された本形式のうち79両がフランスに移出されていた。一部の機関車はダンケルクへの撤退で破壊され、残りはドイツ占領軍によってフランスの鉄道で使用された。戦後、22両から26両の機関車が連合国救済復興機関の支援の下で中国に送られた。30両は英国に返還されたが、役に立たないとみなされ廃車となった。No.2435(WD No.188)はシレジアで、続いて1948年までオーストリアで使用された。1952年にオーストリアに返還されるまで、ロシアが保有した。No.2419および2526(WD No.106および132)の2台も同様だった。残りの機関車は廃棄されたと想定されている。 イギリスに残った機関車の大半は国内の陸軍省と兵器基地で稼動したが、1943年に6両がチュニジアに輸送され、そこからイタリアに輸送された。
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戦時下
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「アメリカン・アニメーションの黄金時代」の記事における「戦時下」の解説
『白雪姫』の成功の後に、ディズニーは続けて3作の長編映画に多大な投資を行い、それらの作品『ピノキオ』(原題:Pinocchio)、『バンビ』(原題:Bambi)、『ファンタジア』(原題:Fantasia)は、いずれもアニメーション史を通じた傑作として賞賛されている。しかしながら、これら3作はどれも『白雪姫』と並ぶほどの興行成績は残せなかった。特に『ファンタジア』は、アニメーションの主流に抽象芸術やクラシック音楽、エリート的な主題を持ち込もうという、ウォルト自身の力量を越えた試みを感じ取った文芸批評家や観客から酷評された。しかし、後世の観客は同様の理由により、ディズニーの芸術的野心を評価している。これらの計画による相対的な失敗を補填するため、ディズニーが制作した低予算長編映画『ダンボ』(原題:Dumbo)は、スタジオを維持するのに充分なだけの収益をもたらした。 1940年代に入ると、2つの大きな出来事がハリウッドアニメーションスタジオが置かれた状況の変化を呼び起こした。1番目はアメリカ合衆国の第二次世界大戦への参戦であり、アニメーションスタジオを含むあらゆる映画制作会社は、戦争に向けての民意形成と士気高揚のための映画制作に動員された。2番目はディズニーとそのスタッフの絆を断ち切ったディズニーのアニメーターらによる1941年のストライキ(詳細は記事ディズニーアニメーターのストライキを参照)であり、多くのディズニースタジオの構成員が新天地を求めてスタジオを後にした。この時スタジオを離れたアニメーターのある者らは、1950年代にアニメーション業界に多大な衝撃をもたらした制作会社UPAを設立した。 合衆国が第二次世界大戦に参戦した後、アニメーション制作会社の人的資源の大半は戦争に関連する素材やプロパガンダを扱った短編制作に注ぎ込まれる事になった。多数のハリウッドの映画制作会社が士気高揚のために大きな貢献を行い、アニメーション制作会社もまたその一員であった。フライシャー・スタジオでは、水兵ポパイが海軍に加わり、フェイマス・スタジオとなってからは、ナチスや日本軍とも戦い始めた。一方ワーナー・ブラザースは、従軍兵士の慰安と学習のために『プライヴェート・スナフー』(スナフー一等兵、原題:Private Snafu)シリーズを制作した。 戦争はウォルト・ディズニーの帝国を震撼させた2つの打撃のうちの2番目の物であった。しかしディズニーは停滞こそしたものの、その王座から転落することはなかった。1940年代のディズニーの長編映画は『メイク・マイン・ミュージック(原題:Make Mine Music)『ファン・アンド・ファンシーフリー』(原題:Fun and Fancy Free)『メロディ・タイム』(原題:Melody Time)『三人の騎士』(原題:The Three Caballeros)などの短編アニメーションのコレクションによる低予算作品であったが、ディズニーは『空軍力の勝利』(原題:Victory Through Air Power)と題されたプロパガンダ映画で士気高揚に大きく貢献した。 その一方でワーナー・ブラザースは活気を取り戻し、次の15年間から20年間に高い人気を獲得した。1944年に、レオン・シュレジンガープロダクションは、シュレジンガーの引退によりワーナーのアニメ部門となったが勢いは衰えることがなかった。これらの期間にフリッツ・フレラングとボブ・クランペットは、その最高の仕事を成し遂げたと見なされている。特にクランペットが監督した『ポーキーのヘンテコランド』(原題:Porky in Wackyland)『カメがウサギを超えた日』(原題:Tortoise Wins By A Hare)『ビッグ・スヌーズ』(原題:The Big Snooze)『石炭姫とひちにんのこびと』(原題:Coal Black and de Sebben Dwarfs)『未来のバニー』(原題:The Old Grey Hare)などの傑作短編によって、6分間物のアニメーション映画はシュルレアリスムに匹敵する水準にまで押し上げられた。1946年に、クランペットはスタジオとの諍いが原因でワーナー・ブラザースを退社し、自身のスタジオ経営に乗り出した。クランペットは新たに誕生したテレビ分野における子供番組の開拓者として活動し、人気番組『Time for Beany』を制作した。 さらに他方では、ディズニーをその玉座から追い落とそうとした試みの十年後になって、MGMスタジオに突然の幸運が続けざまに舞い込んだ。MGMに在籍するアニメーターのウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが、オスカー賞候補となった短編『上には上がある』(原題:Puss Gets The Boot)による商業的成功を収め、ハンナとバーベラは長寿作品となった連続アニメーション『トムとジェリー』の制作に着手した。この作品により、ディズニーを除いてアニメーション制作会社とは無縁だったアカデミー賞に列せられるという栄誉を、MGMは手に入れた。同時に、レオン・シュレジンガーとの争いの末にワーナー・ブラザースを退社したテックス・エイヴリーがMGMに入社し、かつてワーナーのアニメーターたちに活気を与えたのと同様に、MGMのスタジオを生き返らせた。『トムとジェリー』シリーズと、テックス・エイヴリーによる荒々しくシュールな傑作群(これらの内にはアニメーションに大人向けのジャンルを持ち込んだセクシーで小洒落た『おかしな赤頭巾』(原題:Red Hot Riding Hood)シリーズが含まれる)の合間に、ついにMGMはアニメーションの分野において、ディズニーと、そして今のワーナーと肩を並べる企業となったのである。 1940年代に成功したその他の制作会社としては、ウォルター・ランツ・スタジオがある。ウサギのオズワルドの人気を使い果たしたランツと彼のスタッフたちは、三匹の猿ミーニー・ミニー・モーやベイビーフェイス・マウスなどの新しいキャラクターの案出に試行錯誤していた。最終的にこれらのキャラクターの内の一匹が成功した。アンディ・パンダである。しかしながらアンディの成功も、『キツツキとパンダ一家』(原題:Knock, Knock)に登場した五匹目のキャラクターであるウッディー・ウッドペッカーの画期的な成功には及ばなかった。 変化の風はディズニーにとって最大のライバル会社であったフライシャー・スタジオの航路をも変えた。しかし、その変化はMGMで起きた物のように、有益かつ霊感に満ちた物ではなかった。ポパイを海軍に送り込み戦意高揚に貢献した一方で、フライシャーは伝説となった豪華作品『スーパーマン』(Superman)シリーズの制作に着手し、このシリーズの第一作は1941年10月に公開され、オスカー賞候補となった。また、同年12月にはフライシャーにとって2作目の長編『バッタ君町に行く』(Mr.Bug Goes to Town)が公開された。ところが、1940年代初めにパラマウント映画は突如としてフライシャー兄弟を代表者の地位から解任し、製作スタッフも大幅に削減した。現在でも議論を残している動きの内に(この時の状況は映画史研究家にも未だ詳らかにされていない)、パラマウントはフライシャー・スタジオを系列会社に加え、フェイマス・スタジオと改名し、フライシャー兄弟の始めた作品を継続した。フライシャー兄弟更迭の効果は、ただちにスタジオに現れた。戦時下のパラマウントのアニメーション映画はフライシャーの頃と比較するとディズニーの二番煎じの感じが多くなったが、内容は面白く人気作品であり続けた。しかし、1940年代が終わると物語の質ははっきりと低下を始め、どこまでも落ち込んでいった。
※この「戦時下」の解説は、「アメリカン・アニメーションの黄金時代」の解説の一部です。
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戦時下
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「チチェスター・グッドウッド空港」の記事における「戦時下」の解説
第二次世界大戦の際に、英国空軍が、近くのタングミア空軍基地の飛行機の緊急着陸用に滑走路を設けたのが起源である。敷地は、ウェストハムネット農場の跡地で、グッドウッド・エステートの一部である。当時はウェストハムネット空軍基地と呼ばれていた。
※この「戦時下」の解説は、「チチェスター・グッドウッド空港」の解説の一部です。
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「戦時下」の例文・使い方・用例・文例
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