戦時の開発
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「JB-2 (ミサイル)」の記事における「戦時の開発」の解説
アメリカ合衆国は、1944年8月22日の段階で、ナチス・ドイツが新規に開発した秘密兵器について認知していた。これは、デンマーク海軍警備隊が、ドイツとスウェーデンの間に位置するバルト海洋上のボーンホルム島において、破壊されたV-1飛行爆弾の初期試作型を発見したことによる。V-1試作型であるV-83の1枚の写真と詳細なスケッチはイギリスへ送付された。このヒントから、一カ月に渡る情報収集と内容の吟味を経て、最高機密であるドイツのミサイル試験・開発計画の基地としてバルト海沿岸のドイツ領ペーネミュンデが割り出された。 それまで情報は航空写真とドイツ内部のソースから得られていたにすぎなかったが、アメリカ合衆国は1943年の時点でジェット推進による爆弾の開発を決定していた。1944年7月、アメリカ陸軍航空隊は、ノースロップ社に対し、プロジェクトMX-543において、JB-1という(“JB-1”とは「Jet Bomb 1」の頭文字である)ターボジェット推進の飛行爆弾を開発する旨の契約を結んだ。ノースロップ社は全翼式の航空機の中央部に、2基のジェネラル・エレクトリックB1ターボジェットを搭載するという設計案を提出した。爆装は翼付け根に設けられた翼内爆弾倉に、900kg爆弾2発を搭載するものである。設計は空気力学的な試験が行われ、1機のJB-1が有人グライダーとして開発を完了した。初飛行は1944年8月である。 しかしながら1944年6月12日と13日には、イングランドをV-1飛行爆弾の第一波が攻撃した。3週間後の1944年7月、ライトフィールドのアメリカ人技術者たちは、ドイツのアルグスAs014パルスジェットエンジンの可動コピーに点火した。これは破壊されたV-1を、分析のためにイギリスからアメリカへ輸送して技術復元を行ったものである。この技術復元からは、アメリカにおいて最初に量産された誘導ミサイル「JB-2」が手に入ることとなった。 9月8日、最初のJB-2は13基が完成した。復元にあたり、材料はリパブリック社から供給され、ライトフィールドでは7月にこれを受領した。アメリカ合衆国のJB-2はドイツのV-1とごく小さな点で相違があった。翼幅はわずか2インチほど広げられ、翼弦は2フィート未満、延長された。この相違から、V-1は翼面積が55平方フィートであるのに対し、JB-2は60.7平方フィートの翼面積となった。 1944年10月、JB-2の最初の発射にはフロリダ州のイーグリン陸軍飛行場が選定された。イーグリンの一団に加えて、オハイオ州に所在するライトフィールドからは特殊兵器支部が分遣され、1944年にユタ州のウェンドオーバー基地に移動した。これは鹵獲ロケット兵器や、JB-2を含む実験的なロケットシステムを評価する任務を担当した。発射試験はウェンドオーバーの技術基地南側に設けられた発射台から行われた。発射エリアはグーグルアースから閲覧できる。このとき破壊されたV-1とJB-2の破片は、ときどきウェンドオーバー空港の勤務員によって発見される。 1944年12月、ノースロップJB-1の最初の機体が発射準備を完了した。このミサイルはロケット推進のソリによって長さ150mの発射レール上を打ち出されたが、発進から数秒後に、JB-1は急上昇し、失速に入って墜落した。これは離陸に際し、計算を誤って設定した昇降舵が原因だった。しかし、JB-1の計画は、主としてジェネラル・エレクトリックB1ターボジェットエンジンの性能と信頼性が予想よりも低かったことを原因に中止された。さらに、フォードがJB-2に用いる予定のアルグス・パルスジェットエンジンを開発するための費用は、ジェネラル・エレクトリックのターボジェットエンジンよりもはるかに少なく済んだ。この後、JB-2は最終的な開発と量産のために作業が続行された。 初回生産の発注数は1,000基であり、その後にも1カ月に1,000基が生産されることとされた。しかしながらこの生産数は1945年4月まで達成が期待できなかった。リパブリック社は、自社が持つ生産ラインではP-47サンダーボルト戦闘機を製造しており、機体フレームの製造をウィリス・オーバーランド社に下請け契約した。フォード社ではエンジンを製作した。呼称はIJ-15-1である。これは900ポンドの推力を持つ、V-1のアルグス・シュミット パルスジェットエンジンのコピーだった。誘導装置と自動操縦装置は、オハイオ州クリーブランドに所在したジャック&ハインツ社によって生産された。またモンサント社は、ノースロップ社から発射そりを供給され、より改善された発射システムの開発設計を担当した。生産と配備は1945年1月から開始された。 想定では、JB-2は75,000基の生産が計画された。アメリカ陸軍航空隊では、ドイツと日本に対してこの兵器を投入するべく発射中隊を編成した。しかし1945年5月にヨーロッパでの戦争は終結し、JB-2は生産数を縮小したが、配備計画の終結には至らなかった。 ヨーロッパの陸軍司令官たちには、ドイツ軍に対抗して排除する兵器としては戦略爆撃の概念がそれを満たしており、かつ、1945年までにはドイツの戦略目標の数は限定的なものとなっていた。 しかしJB-2は、ダウンフォール作戦、特に日本本土を侵攻する計画において予期された高い死傷者数という観点から、日本を攻撃する兵器として想定された。地上軍が上陸する前に180日に渡る強力な爆撃が日本本土に加えられる予定であり、これは「本戦争で、最も強力で継続された、侵入に先立つ爆撃」だった。攻撃には海軍の通常行われる艦砲射撃と、ロケットを発射する航空機の空襲、それにドイツの使用したV-1飛行爆弾のアメリカ版が含まれていた。 海軍が運用したJB-2は「KGW-1」と呼称された。これは護衛空母(CVE)と同じく、海軍の戦車揚陸艦(LST。Landing Ship, Tank)から日本軍に対して投入される計画だった。さらにPB4Y-2プライバティア哨戒機からの発射が想定され、空中発射の技術が開発された。公式には、アメリカ空軍の行動表では、戦争終結の直前に、太平洋へ向かう途中の航空母艦が、日本本土の侵攻計画で、起こりうる使用のために、大量のJB-2を受領したと記載しているが、その空母の名称が明らかにされたことはない。またイーグリン基地のある歴史資料では、フィリピンの某陸軍航空隊部門は、日本に対してJB-2を発射する準備をしていたが、核兵器による爆撃はその任務には含まれていなかった。 1945年8月の日本に対する核兵器使用はダウンフォール作戦の中止へと至らせ、JB-2の配備も9月15日に終了した。合計1,391基が製造された。
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