終戦
戦争終結
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「戦争終結」の解説
緩慢な反撃を続けるローマ軍は163年になってアルメニア王国の首都アルカタを占領した。ルキウスは戦争に何ら寄与していなかったが、名目上の司令官として「アルメニクス(Armeniacus)」の称号を元老院から与えられた。同時にアウレリウスにも称号授与が行われたが、彼は戦争終結までは辞退すると返答している。しかしインペトラル(凱旋将軍)の称号については共に受け取ったと見られる。 アルメニアを奪還したローマは荒廃したアルカタを放棄して新しい都を建設して、そこに首都を遷都させた。新しい皇帝にはローマの元老院議員・執政官カイウス・イウリウス・ソハエムスが着任、形式的な王の戴冠式はアルメニア領内外で行われた。ルキウス帝がアルメニア王の宮殿に訪れると、ソハエムスは元老議員として玉座を皇帝に譲り、ルキウス帝が玉座に座る儀式が行われた。 一方、パルティア王国軍は反撃として今度はオスロエネ王国のエデッサに軍を送り込み、再び傀儡君主を立てる行動に出た。対するローマ軍は軍を南下させてユーフラテス川の南側から渡河を決行、そこから北進して南からパルティア軍を牽制した。ほどなくユーフラテスの北側も制圧したローマ軍はオスロエネ王国へ援軍を派遣してエデッサの南西部に拠点を確保した。 165年、ローマ軍はエデッサを陥落させて親ローマ派の君主を復位させた。パルティア軍はニシビスに退いて抵抗を続けたが、やがてオスロエネ王国からチグリス川へ撤収した。戦いで顕著な活躍を見せたのが第3軍団「ガリカ」を率いる元老院議員ガイウス・アウィディウス・カッシウスであり、ドゥラの戦いでパルティア軍に多大な損害を与えた。同年の暮れまでに追撃を続けるアウィディウス軍はセレウキアとクテシフォンというパルティア王国の二大都市を占領する大功を挙げた。クテシフォンに入城したローマ軍はパルティア王の宮殿を焼き払い、これに恐れをなしたセレウキアのギリシャ系住民はパルティア軍を追い払って自ら開城した。しかしセレウキアに入城したローマ軍は約束を反故にして略奪を行い、大勢の市民が虐殺された。元老院の批判に対してルキウス帝は「セレウキアの住民が約束を破った」と強弁した。 物資不足と疫病の関係からローマ軍の戦力は削られたが、問題なくアウィディウスは軍勢を本土へと帰還させた。元老院はアンティオキアのルキウス帝に「パルティニクス・マキシムス」を新たな称号として与え、アウレリウスとルキウスはインペトラル経験数を3回へと増やした。またアウィディウスが帰還途中にメディアを占領したので、ルキウスは「メディクス」の称号と 4度目のインペトラルを授与された。後にアウレリウスも「パルティニクス・マキシムス」の称号を与えられている。
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戦争終結
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「サラット・フォンセカ」の記事における「戦争終結」の解説
2009年5月18日、スリランカ軍はLTTEを完全に制圧し、26年に及ぶ内戦を終結させた。フォンセカはその中心的存在として陸軍を指揮し、この業績によって国内から英雄として評価されるようになった。そしてその後すぐに国内初の陸軍元帥(名誉職)に昇進した。そして同年7月には大統領直属の国防次官(英語版)となり、大統領の防衛戦略を補佐した。
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戦争終結
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再開された戦争でマリウスはヌミディア軍を再び打ち破ったが、ユグルタは岳父であるマウレタニア王ボックスの支援を取り付けて各地での抵抗を続けた。マリウスはヌミディア王国の再南端にあるカプサを攻め落とし、遠隔地での反乱を防ぐ為に全ての成人男子を処刑した。他にヌミディアとマウタレニアとの境にある要塞を攻め落とすなど強行軍を続けたが、軍事的勝利だけでユグルタを屈服させる事は困難であった。焦点はユグルタを支援するマウレタニア王国との外交に移り、マリウスは副官に指名した財務官ルキウス・コルネリウス・スッラに秘密交渉を一任した。スッラはボックス王に取り入ってマウレタニアの宮殿に赴き、一度は人質にされる窮地に陥ったものの、最終的にはボックスを説得してユグルタを引き渡させた。 公約通りに戦争は早期に終結したが、その功績を巡ってはマリウスとスッラの間では対立が生じた。民衆派とマリウスは華々しい戦勝においてスッラの存在を全く無視したが、メテッルスら閥族派は真の功労者はスッラであると讃え、スッラ自身も功績を自賛する文言を指輪に刻ませるなど不満を隠さなかった。後に内戦の遠因ともなったこの争論は新たな戦いが始まるまで継続した。
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戦争終結
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「第一次インドシナ戦争」の記事における「戦争終結」の解説
ディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、関係国の間でジュネーヴ協定が締結された。これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。それは民主共和国軍人として17度線以北に結集した兵士と南の家族の長い分断の始まりでもあった。 しかし、フランスはアルジェリアなどアフリカ植民地の独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、1955年10月、アメリカの強い影響力を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立、1956年6月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。南部のベトミンはゴ・ディン・ジエム政権により激しい弾圧を受け、やがて南ベトナム解放民族戦線を組織した。
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「戦争終結」の例文・使い方・用例・文例
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