終戦
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終戦(しゅうせん)とは、戦争を終えること。国際法としては、戦争の終結が当事者双方の間で成立した状態を指す。対義語は開戦。
概説
本来は宣戦布告とともに開戦が行われ、講和条約・平和条約締結とともに終戦を迎えると解釈されてきた。
ところが、20世紀に入ると戦争そのものが国際法における違法行為との解釈が成立するようになったため、却って戦争における国際法上の開戦手続が行われなくなり、終戦も講和条約や平和条約が結ばれない状態のままの休戦協定で定められた停戦状態の継続、すなわち協定に基づく休戦の一般化・恒久化、もしくは当事者一方が相手方に降伏を通告して戦闘状態が終結した状態を指して終戦と呼ぶようになった。
湾岸戦争終結に際して行われた国際連合安全保障理事会決議687(1991年4月3日)が恒久停戦決議とされ、その合意に基づき、6日後の国際連合安全保障理事会決議689によって停戦監視のための国際連合平和維持活動である国際連合イラク・クウェート監視団が設置されて終戦に伴う措置が行われた。
国際法
なお、降伏または休戦に基づく終戦の際の処理については1907年に締結された「陸戦の法規慣例に関する規則」に書かれており、降伏に際しては軍人の名誉を重視し、確定後はその規約を双方厳守すること(第35条)や、当事者一方が休戦規約違反を起こした場合には他方の当事者は協定を破棄し、緊急時には直ちに戦闘を再開できることが記されている。
スポーツでの用法
スポーツチーム等の敗北・敗退が決まった状態のことを「終戦」と表現することがある[1]。
関連項目
脚注
- ^ “侍ジャパン終戦…WBC3連覇絶たれる、8回走塁ミスで好機逃す”. スポーツニッポン. (2013年3月18日) 2017年8月19日閲覧。
参考文献
- 弘文堂『歴史学事典』第7巻「終戦」(中谷和弘、P307)
- 森下智『近衛師団参謀終戦秘史』平成18年~21年、ISBN 978-4-9908114-0-2
- 森下智『川口放送所占拠事件秘史』平成20年、ISBN 978-4-9908114-2-6
戦争終結
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「戦争終結」の解説
緩慢な反撃を続けるローマ軍は163年になってアルメニア王国の首都アルカタを占領した。ルキウスは戦争に何ら寄与していなかったが、名目上の司令官として「アルメニクス(Armeniacus)」の称号を元老院から与えられた。同時にアウレリウスにも称号授与が行われたが、彼は戦争終結までは辞退すると返答している。しかしインペトラル(凱旋将軍)の称号については共に受け取ったと見られる。 アルメニアを奪還したローマは荒廃したアルカタを放棄して新しい都を建設して、そこに首都を遷都させた。新しい皇帝にはローマの元老院議員・執政官カイウス・イウリウス・ソハエムスが着任、形式的な王の戴冠式はアルメニア領内外で行われた。ルキウス帝がアルメニア王の宮殿に訪れると、ソハエムスは元老議員として玉座を皇帝に譲り、ルキウス帝が玉座に座る儀式が行われた。 一方、パルティア王国軍は反撃として今度はオスロエネ王国のエデッサに軍を送り込み、再び傀儡君主を立てる行動に出た。対するローマ軍は軍を南下させてユーフラテス川の南側から渡河を決行、そこから北進して南からパルティア軍を牽制した。ほどなくユーフラテスの北側も制圧したローマ軍はオスロエネ王国へ援軍を派遣してエデッサの南西部に拠点を確保した。 165年、ローマ軍はエデッサを陥落させて親ローマ派の君主を復位させた。パルティア軍はニシビスに退いて抵抗を続けたが、やがてオスロエネ王国からチグリス川へ撤収した。戦いで顕著な活躍を見せたのが第3軍団「ガリカ」を率いる元老院議員ガイウス・アウィディウス・カッシウスであり、ドゥラの戦いでパルティア軍に多大な損害を与えた。同年の暮れまでに追撃を続けるアウィディウス軍はセレウキアとクテシフォンというパルティア王国の二大都市を占領する大功を挙げた。クテシフォンに入城したローマ軍はパルティア王の宮殿を焼き払い、これに恐れをなしたセレウキアのギリシャ系住民はパルティア軍を追い払って自ら開城した。しかしセレウキアに入城したローマ軍は約束を反故にして略奪を行い、大勢の市民が虐殺された。元老院の批判に対してルキウス帝は「セレウキアの住民が約束を破った」と強弁した。 物資不足と疫病の関係からローマ軍の戦力は削られたが、問題なくアウィディウスは軍勢を本土へと帰還させた。元老院はアンティオキアのルキウス帝に「パルティニクス・マキシムス」を新たな称号として与え、アウレリウスとルキウスはインペトラル経験数を3回へと増やした。またアウィディウスが帰還途中にメディアを占領したので、ルキウスは「メディクス」の称号と 4度目のインペトラルを授与された。後にアウレリウスも「パルティニクス・マキシムス」の称号を与えられている。
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