戦争終結直後の混乱期とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:35 UTC 版)
「アメリカ合衆国による沖縄統治」の記事における「戦争終結直後の混乱期とその後」の解説
アメリカ軍は第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸し、沖縄諸島各地に侵攻を開始し、沖縄本島の防衛にあたっていた日本軍と地上戦を繰り広げた(沖縄戦)。4月5日、アメリカ海軍元帥チェスター・ニミッツは「米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)」を公布し、奄美群島以南の南西諸島地域における日本政府の行政権を停止して軍政府が統治すると宣言し、読谷村に琉球列島米国軍政府(以下軍政府と略す)を設立した。 6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメリカ軍によって占領された。8月14日にポツダム宣言の受諾が予告された後、8月20日には解体した沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関として、アメリカ軍によって「沖縄諮詢会」が設置され、後に権限が沖縄諸島全体までに拡大された。また宮古支庁、八重山支庁は戦火を免れ存続していたため、それぞれ宮古列島、八重山列島の行政をアメリカ軍直属で行うこととなった。1946年(昭和21年)1月29日、GHQよりSCAPIN - 677が指令され、このSCAPIN - 677によって北緯30度以南の南西諸島全域における日本の施政権が停止され、鹿児島県大島郡(奄美群島やトカラ列島)も鹿児島県から分離されて軍政当局下に置かれ、大島支庁から本土出身者が追放された。 アメリカは当初、琉球人は日本帝国主義に支配された異民族であると認識し、日本本土の一部でなく、日本が武力で制圧した島だと考えた。また沖縄人は自ら政治、経済を行えないという先入観から、沖縄人の自治能力を過小に評価していた為、沖縄における民主化に対して消極的であった。そのためにまず、民主主義の基礎を築くことにし、市町村長、市町村議会の選挙を実施した。1945年(昭和20年)9月20日、沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙で、女性に参政権が認められ選挙が行われた。 沖縄諮詢会設立においては、大日本帝国軍と帝国主義者と関係にあった人物は諮詢会員の選考から除外された。1947年(昭和22年)には幾つかの政党が結成されたが、軍政府は「政党の行動制限」を設け、軍政府の政策に批判・阻止する政党には厳しい罰則が加えられた。 1949年(昭和24年)、東西冷戦が激化すると、朝鮮半島の軍事的緊張が高まった。アメリカによる極東地域戦略のため、沖縄に大規模な軍事基地や施設を建設した。軍道1号線(現在の国道58号)の拡張、那覇軍港の整備、弾薬倉庫、米兵用住宅などの軍用地開発が推進された。そのため沖縄本島は極東最大の米軍基地へと変わり、米軍からは「太平洋の要石 (Keystone of the Pacific)」とも言われた。この工事と並行して、ジョセフ・R・シーツ軍政長官は復興支援を行った。ガリオア資金を増額し、群島知事と群島議員選挙の実施、不必要な軍用地に対する土地所有権を認定するなど、住民からはシーツ善政と評された。
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