戦争終結後における処理とその後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 17:18 UTC 版)
「第四次マイソール戦争」の記事における「戦争終結後における処理とその後の経過」の解説
第四次マイソール戦争、イギリスはティプー・スルターンの葬儀を行い、マイソール軍は解散したのち、マイソール戦争の一連の戦後処理を行った。 また、イギリスはティプー・スルターンに廃されたヒンドゥーの旧王朝であるオデヤ朝を復活させ、6月30日に幼王クリシュナ・ラージャ3世が即位した。 マイソール・スルターン朝の存続を望む声も高かったが、オデヤ朝の復活はウェルズリーの個人的判断によるものであった。これにより、ティプー・スルターンの家族は全員シュリーランガパトナからヴェールールへと連行された。 7月8日、イギリスはマイソール王国と軍事保護条約を締結し、マイソール王国を藩王国とし(マイソール藩王国)、マドラス管区の管轄におかれた。軍事保護条約により、マイソール王国の首都シュリーランガパトナにはイギリス軍が駐屯することになり、総督は自由に内政に干渉し、必要であればその内政権を摂取できるという従属性の強い条項も含まれた。 また、イギリスはニザーム藩王国、マラーター王国とともにマイソール王国の領土分割を行った。マラーターにも領土が割譲されたのは、ニザームとの勢力均衡を考慮してのことであった。すでにマイソール王国の領土は第三次戦争の講和条約で半分となっていたが、これでさらに半分となった。 一方、戦後、カルナータカ太守ウムダトゥル・ウマラー(ムハンマド・アリー・ハーンの息子)は戦争中にマイソール側に物資を供給したのではないか、とイギリスから内通の疑いをかけられた。1801年7月に彼が突如死亡すると、イギリスはカーナティック条約でその領土の支配を奪い、これもマドラス管区に併合した。 ティプー・スルターンを打倒したことで30年以上に及ぶマイソール戦争は終結し、イギリスの南インドにおける覇権が決まり、インドの植民地化がまた一段と進む結果となった。とはいえ、ティプー・スルターンの戦死後、同年にはヴィーラ・パーンディヤ・カッタボンマンがタミル地方で反乱を起こし、このポリガール戦争は1805年まで続いた。 さて、マラーター王国では、1800年4月に財務大臣ナーナー・ファドナヴィースが死亡し、混乱の続いていたマラーター同盟はその様相を隠しきれなくなった。イギリスは南インドを制圧したのち 1802年末からイギリスは内紛の多かったマラーター同盟にも介入し、第二次マラーター戦争、第三次マラーター戦争へとつながっていった。
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