戦死後
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その後、オーストラリア海軍により中馬艇と松尾艇は引き上げられ、1942年(昭和17年)6月9日、シドニー近郊のロックウッド・クリマトリア斎場にて遺体は海軍葬をもって葬られた。シドニー市内では彼ら敵国の軍人を丁重に弔うことに反対の声も大きかったが、オーストラリア海軍司令官・ジェラード・ミュアヘッド=グールド(英語版)少将は部下に対し、以下の様に演説した。 「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが、なぜいけないのか。勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。このような鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、相当の勇気が要る。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか」。 遺骨は駐オーストラリア公使・河相達夫に託され、戦時交換船の「鎌倉丸」により日本へ帰国した。 戦後の1965年(昭和40年)7月、80歳となった母・まつ枝のもとをオーストラリア連邦戦争記念館館長のマッグレース夫妻が訪ね、豪州訪問を持ちかけた。1968年(昭和43年)4月、まつ枝はオーストラリアを訪れた。シドニーでは海軍が出迎え、市内では大歓迎を受けた。19代オーストラリア首相ジョン・ゴートン(英語版)、バート・ケリー(英語版)海相と会談。また、引き揚げられた「特潜」が展示されている戦争記念館に到着すると、マッグレース館長より松尾が所持していた千人針が返還された。まつ枝は1980年(昭和55年)に95歳で死去した。 2002年(平成14年)11月、23代オーストラリア首相・ロバート・ホークが墓に献花した。唯一、行方不明となっていた伴艇は2006年(平成18年)12月、シドニー湾沖5.6km、水深70mの海底にて発見された。
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戦死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:57 UTC 版)
累計6回の部隊感状(加藤を指揮官とする)に加え、改めて1942年5月30日に南方軍総司令官寺内寿一大将から個人感状が授与され、また後には帝国陸軍史上初となる二階級特進および、異例の功二級金鵄勲章拝受の栄誉を受けた。個人感状では「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評され、大元帥(昭和天皇)の上聞に達し、これによって第64戦隊の戦隊歌の歌詞は「七度重なる感状」となった。 その活躍と、その人格・人徳から部下からは生前から「軍神」と尊敬(そのストイックな武士道から加藤教と呼ぶ者もいた)されていたが、7月22日には陸軍省から正式に「軍神加藤少将戦死」と国民に向けて発表され、23日付の各新聞ではトップ・ニュースとして一面で扱われ一般からも賞賛を得ることになった。朝日新聞では「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」の見出しに「前線の加藤少将と新鋭戦闘機「隼」」「建軍以来感状の最高記録」の副題を付け、加藤を「隼」の写真とともに大々的に報道し、7月29日公開日本ニュース第121号「脱帽 感状七度軍神 加藤少将」では、在りし日の映像とともに「帝国陸軍 空の至宝 加藤建夫中佐」と謳い、写真週報8月5日号では「噫々軍神 加藤建夫少将」「双葉より神鷲の面影」、9月16日号では「敵空軍恐怖の的 隼」と特集するなど連日大々的に扱われていた。これによって、加藤は「空の軍神」・「軍神加藤少将」・「隼戦闘隊長」として当時の全国民の知る伝説的英雄となり、また加藤の活躍と相まって、一式戦「隼」は太平洋戦争中の日本軍戦闘機の中でも最も有名な戦闘機として知られることになった。 9月22日、秋雨降る築地本願寺にて陸軍葬が執り行われた。葬儀には近衛師団の近衛兵による儀仗に加え、弔辞は参謀総長杉山元大将が奉読、内閣総理大臣東条英機大将をはじめ多くの陸海軍高官らが参列した。その模様は「脱帽 空の軍神 加藤少将陸軍葬」と題し日本ニュース第121号で放映されている。墓所は、旭川市豊岡の愛宕墓地および東京都府中市の多磨霊園(遺族は当時小金井市に居住していた)。旭川市東旭川町の旭川神社境内にある兵村記念館には、加藤に関する貴重な資料が展示されている。 1944年(昭和19年)には戦意高揚の意もあって『加藤隼戦闘隊』として映画化(加藤役・藤田進)、劇中歌でもある部隊歌とともに大ヒットした。
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戦死後
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房太は、牧野三郎大尉(第二次攻撃隊、空母「加賀」爆撃隊指揮官、操縦員。海兵60期)、鈴木三守大尉(第一次攻撃隊、空母「加賀」雷撃隊第二中隊長、操縦員。海兵64期)とともに、「真珠湾偉勲の三勇士」と謳われ、戦死後、二階級特進して海軍中佐となった。 房太の記事を見た群馬県に住む喜久代は、房太の母親ステを慰めるべく手紙を書いたのがきっかけで、房太の従兄弟義昭と結婚して夫婦で飯田家を継ぐことになり、1958年(昭和33年)には、飯田記念室を設立した。 1971年(昭和46年)、記念碑がカネオヘ湾海兵隊航空基地内に建立された。碑面には英文で、「日本機突入地点、パイロット 飯田大尉 第三制空集団指揮官 一九四一年十二月七日」(JAPANESE AIRCRAFT IMPACT SITE PILOT LIEUTENANT IIDA, I.J.N. CMDR.. THIRD AIR CONTROL GROUP DEC. 7, 1941)と書かれている。 カネオへ海軍基地の防備隊にいて房太の突入を目撃していたコンラッド・R・フリーズ(Conrad R. Frieze)は、ミッドウェー海戦で、漂流中の空母「飛龍」機関科万代久男少尉(海機50期)を、自らが搭乗する哨戒機で救助し、交流を続けていた。その後、万代を介して、房太の遺族を探しあて、1981年(昭和56年)12月7日、ハワイで行なわれた「米軍将兵戦没者慰霊祭」に、喜久代を招待した。 炎上する「零戦」から房太の遺体を運び出したサム・チュン(Sam Chun)は、房太の飛行帽を隠して保管していた。1999年(平成11年)12月8日、サム・チュンの娘エルフリーダ・ツカヤマ(Elfrieda Tsukayama)は、ハワイで行われた返還式で、喜久代に飛行帽を手渡した。 2001年(平成13年)5月26日には、千葉県銚子市のカメラマン堺敬生が製作した上映時間19分のビデオ作品『還ってきた飛行帽』が、山口県新南陽市(当時)で上映された。 角田和男は、空母「蒼龍」から教員として転入してきた若い艦爆操縦員 (菅野三空曹か佐々木三空曹のどちらか)に、飯田大尉の戦死状況と列機が誰だったのか、本当に帰れないほど大きな穴がタンクに開いたか、などを食い下がって尋ねた。初めはなかなか話さず、戦闘機の方のことは分からない、と言っていた彼も、 「班長の熱心さには負けました。実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令が敷かれたことで、他人には話せないことですが、あまり班長が飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないですが、(飯田)分隊長は攻撃の前日、列機を集めて『この戦は、どのように計算してみても、万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい。』という訓辞をしたそうです。予定通り引き返したときも燃料は漏れていなかったと言うことでした。しかし、このことはその日の内に艦内全員に口外することを禁止されたのです」 と答えた。 2016年12月26日午後(日本時間27日昼)にハワイを訪問中の安倍晋三首相は戦死したホノルル市内のカネオヘ基地にある飯田房太中佐の記念碑を岸田文雄外相や稲田朋美防衛相を同行して献花し所信表明で 昨日私は、カネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し戦死した戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けていた側にいた米軍の人々です。死者の勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め「日本帝国海軍大尉」と当時の階級を刻んであります。 The brave respect the brave.「勇者は、勇者を敬う」 アンブローズ・ビアスの詩(うた)は言います。戦い合った敵であっても敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の寛容の心です。 と述べた。 同日には1960年代から山口県周南市の自宅を改装して「飯田資料室」で遺品や写真を展示していた。。従兄弟から飯田中佐の母の養子となった男性と飯田中佐の母に手紙を戦後も唯一送り続けた縁で知り合った彼の妻は安倍晋三首相の慰霊訪問に「安倍首相には本当に感謝しかない。『ふーちゃん』はもちろん、あの戦争で亡くなった全ての人が喜んでいるような気がします」、「戦争で命を散らした人がいることを思い出すきっかけになってくれれば」と話した。
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