戦死後とは? わかりやすく解説

戦死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 06:32 UTC 版)

松尾敬宇」の記事における「戦死後」の解説

その後オーストラリア海軍により中馬艇と松尾艇は引き上げられ1942年昭和17年6月9日シドニー近郊のロックウッド・クリマトリア斎場にて遺体海軍をもって葬られた。シドニー市内では彼ら敵国軍人丁重に弔うことに反対の声も大きかったが、オーストラリア海軍司令官・ジェラード・ミュアヘッド=グールド英語版少将部下対し、以下の様に演説した。 「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君聞きたい勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが、なぜいけないのか。勇気は一民族私有物でもなければ伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示され勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものであるこのような棺桶乗って死地赴くのには、相当の勇気要る。これら勇士犠牲的精神の千分の一でも持って祖国捧げるオーストラリア人が、果たし何人いるであろうか」。 遺骨は駐オーストラリア公使河相達夫託され戦時交換船の「鎌倉丸」により日本へ帰国した。 戦後1965年昭和40年7月80となった母・まつのもとをオーストラリア連邦戦争記念館館長のマッグレース夫妻訪ね豪州訪問持ちかけた。1968年昭和43年4月、まつオーストラリア訪れたシドニーでは海軍出迎え市内では大歓迎受けた19オーストラリア首相ジョン・ゴートン(英語版)、バート・ケリー(英語版海相会談また、引き揚げられた「特潜」が展示されている戦争記念館到着すると、マッグレース館長より松尾所持していた千人針返還された。まつ1980年昭和55年)に95歳で死去した2002年平成14年11月23オーストラリア首相ロバート・ホークが墓に献花した唯一行方不明となっていた伴艇は2006年平成18年12月シドニー湾沖5.6km、水深70mの海底にて発見された。

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戦死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:57 UTC 版)

加藤建夫」の記事における「戦死後」の解説

累計6回の部隊感状加藤指揮官とする)に加え改め1942年5月30日南方軍総司令官寺内寿一大将から個人感状授与され、また後には帝国陸軍史上初となる二階級特進および、異例功二級金鵄勲章拝受栄誉受けた個人感状では「ソノ武功一ニ中佐高邁ナル人格卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評され大元帥昭和天皇の上聞に達し、これによって第64戦隊戦隊歌の歌詞は「七度重な感状となった。 その活躍と、その人格・人徳から部下からは生前から「軍神」と尊敬(そのストイックな武士道から加藤教と呼ぶ者もいた)されていたが、7月22日には陸軍省から正式に軍神加藤少将戦死」と国民向けて発表され23日付の各新聞ではトップ・ニュースとして一面扱われ一般からも賞賛を得ることになった朝日新聞では「仰ぐ軍神加藤建夫少将」の見出しに「前線加藤少将新鋭戦闘機「隼」」「建軍以来感状最高記録」の副題付け加藤を「隼」の写真とともに大々的報道し7月29日公開日ニュース121号「脱帽 感状七度軍神 加藤少将」では、在りし日映像とともに帝国陸軍 空の至宝 加藤建夫中佐」と謳い写真週報8月5日号では「噫々軍神 加藤建夫少将」「双葉より神鷲面影」、9月16日号では「敵空軍恐怖の的 隼」と特集するなど連日大々的扱われていた。これによって、加藤は「空の軍神」・「軍神加藤少将」・「隼戦闘隊長」として当時全国民の知る伝説的英雄となり、また加藤活躍相まって一式戦「隼」太平洋戦争中日本軍戦闘機中でも最も有名な戦闘機として知られることになった9月22日秋雨降る築地本願寺にて陸軍葬が執り行われた。葬儀には近衛師団近衛兵による儀仗加え弔辞参謀総長杉山元大将奉読内閣総理大臣東条英機大将をはじめ多く陸海軍高官らが参列した。その模様は「脱帽 空の軍神 加藤少将陸軍葬」と題し日本ニュース121号で放映されている。墓所は、旭川市豊岡愛宕墓地および東京都府中市多磨霊園遺族当時小金井市居住していた)。旭川市東旭川町旭川神社境内にある兵記念館には、加藤に関する貴重な資料展示されている。 1944年昭和19年)には戦意高揚の意もあって『加藤隼戦闘隊』として映画化加藤役・藤田進)、劇中歌でもある部隊とともに大ヒットした。

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戦死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 20:55 UTC 版)

飯田房太」の記事における「戦死後」の解説

房太は、牧野三郎大尉第二次攻撃隊、空母加賀爆撃指揮官操縦員。海兵60期)、鈴木三守大尉第一次攻撃隊、空母加賀雷撃第二中隊長、操縦員。海兵64期)とともに、「真珠湾偉勲三勇士」と謳われ、戦死後、二階級特進して海軍中佐となった。 房太の記事見た群馬県に住む喜久代は、房太の母親ステ慰めるべく手紙書いたのがきっかけで、房太の従兄弟義昭結婚して夫婦飯田家を継ぐことになり、1958年昭和33年)には、飯田記念室設立した1971年昭和46年)、記念碑カネオヘ海兵隊航空基地内に建立された。碑面には英文で、「日本突入地点パイロット 飯田大尉 第三制空集団指揮官 一九四一十二月七日」(JAPANESE AIRCRAFT IMPACT SITE PILOT LIEUTENANT IIDA, I.J.N. CMDR.. THIRD AIR CONTROL GROUP DEC. 7, 1941と書かれている。 カネオへ海軍基地防備隊にいて房太の突入目撃していたコンラッド・R・フリーズConrad R. Frieze)は、ミッドウェー海戦で、漂流中の空母飛龍機関科万代久男少尉海機50期)を、自らが搭乗する哨戒機救助し交流続けていた。その後万代を介して、房太の遺族探しあて、1981年昭和56年12月7日ハワイ行なわれた「米軍将兵戦没者慰霊祭」に、喜久代を招待した炎上する零戦」から房太の遺体運び出したサム・チュン(Sam Chun)は、房太の飛行帽隠して保管していた。1999年平成11年12月8日、サム・チュンの娘エルフリーダ・ツカヤマ(Elfrieda Tsukayama)は、ハワイ行われた返還式で、喜久代に飛行帽手渡した2001年平成13年5月26日には、千葉県銚子市カメラマン堺敬生が製作した上映時間19分のビデオ作品『還ってきた飛行帽』が、山口県新南陽市当時)で上映された。 角田和男は、空母蒼龍」から教員として転入してきた若い艦爆操縦員 (菅野三空曹か佐々木三空曹のどちらか)に、飯田大尉戦死状況と列機が誰だったのか、本当に帰れないほど大きな穴がタンク開いたか、などを食い下がって尋ねた初めはなかなか話さず、戦闘機の方のことは分からないと言っていた彼も、 「班長の熱心さには負けました。実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令敷かれたことで、他人に話せないことですが、あまり班長飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないですが、(飯田分隊長攻撃前日、列機を集めて『この戦は、どのように計算してみても、一つ勝算もない。私は生きて祖国滅亡見るに忍びない。私は明日栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方見守ってもらいたい。』という訓辞をしたそうです予定通り引き返したときも燃料漏れていなかったと言うことでした。しかし、このことはその日の内に艦内全員口外することを禁止されたのです」 と答えた2016年12月26日午後日本時間27日昼)にハワイ訪問中の安倍晋三首相戦死したホノルル市内のカネオヘ基地にある飯田房太中佐記念碑岸田文雄外相稲田朋美防衛相同行して献花し所信表明昨日私は、カネオへの海兵隊基地に、一人日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れましたその人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し母艦帰るのをあきらめ引き返し戦死した戦闘機パイロット飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃受けていた側にいた米軍人々です。死者勇気称え石碑建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意込め日本帝国海軍大尉」と当時階級刻んであります。 The brave respect the brave.「勇者は、勇者を敬う」 アンブローズ・ビアスの詩(うた)は言います戦い合ったであっても敬意を表する憎しみ合ったであっても理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民寛容の心です。 と述べた同日には1960年代から山口県周南市自宅改装して飯田資料室」で遺品写真展示していた。。従兄弟から飯田中佐の母の養子となった男性飯田中佐の母に手紙戦後唯一送り続けた縁で知り合った彼の妻は安倍晋三首相慰霊訪問に「安倍首相に本当に感謝しかない。『ふーちゃん』はもちろん、あの戦争亡くなった全ての人が喜んでいるような気がします」、「戦争で命を散らした人がいることを思い出きっかけになってくれれば」と話した

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