斎藤実盛とは? わかりやすく解説

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さいとう‐さねもり【斎藤実盛】

読み方:さいとうさねもり

[?〜1183]平安末期武将越前の人。保元の乱・平治の乱には源義朝に従って戦功があったが、義朝の戦死後平宗盛維盛仕えた。のち、北陸源義仲戦って戦死その際老年を隠すために白髪黒く染めて出陣したという。


斎藤実盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/12 09:57 UTC 版)

斎藤 実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも[4])の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。


  1. ^ 『長井系図』
  2. ^ 尊卑分脈
  3. ^ 埼玉県熊谷市にある聖天山歓喜院を創設した人物で、実盛の次男斎藤実長と伝えられる。
  4. ^ 『長井系図』では斎藤実直は父ではなく、養父とある。『尊卑分脈』では実直の父実遠の子とも
  5. ^ 山田野理夫 『怪談の世界』時事通信社、1978年、99頁。 


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斎藤実盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 06:21 UTC 版)

遮那王義経」の記事における「斎藤実盛」の解説

平家方の武将。かつて義仲の父義賢敵対していた義朝配下武将だったが、義賢討死後、幼かった義仲の命を救った。このことから後年まで義仲恩義感じていたが、篠原の戦いにて平家側の武将として義仲敵同士相まみえる。名を尋ねられても一介老将として名乗らなかったが、老体ながら木曽勢相手奮戦する。しかし最後樋口兼光によって討ち取られてしまう。当初義仲は気づかなかったが、討ち取られる直前にその顔を思い出し首を取るのを止めようとするも既のところで間に合わず義仲恩人死に涙した

※この「斎藤実盛」の解説は、「遮那王義経」の解説の一部です。
「斎藤実盛」を含む「遮那王義経」の記事については、「遮那王義経」の概要を参照ください。

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