じ‐しゅう【時宗】
じしゅう 【時宗】
時衆/時宗(じしゅう)
時衆の特徴は、①宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、②開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。
歴史的には、時衆は先行する融通念仏の念仏信仰をベースとしている。
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった(この札は現在でも藤沢遊行寺で遊行上人により配られている)。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった。しかし、中世中~後期における踊り念仏の全国的普及には、やはり一遍と時衆教団の貢献が大きいと考えられる。
一遍の死後、14世紀末から15世紀に全国的に教線を伸ばしたが、16世紀には衰退して本願寺教団などに拠点を奪わることもあった。注目されるのは、中世時衆の拠点が都市的な場所であったことであり、時衆遺跡の存在は中世都市の指標の一つにもなっている。たくさんの人への布教を目指す時衆は、必然的に都市的な場所を拠点に選んだ。踊り念仏から盆踊りへの変化を考える上でも、中世都市問題への注目が必要となる。
中世の時衆はまた、死者供養・鎮送の役割も担っていた。戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。
江戸時代になると、時衆は幕府により統制される。全国を回国する「遊行上人」と、引退後の「藤沢上人」の両頭体制であった。
一遍上人の事績を伝える史料としては、弟子聖戒と絵師円伊による「一遍聖絵」と、二祖他阿真教の「一遍上人絵伝」が有名。史料的価値が高いのは「聖絵」である。平成15年春の研究で、聖絵における一遍はもともと全裸で描かれていたことが判明、徹底した「捨聖」(すてひじり)としての姿が明らかになり、関係者に衝撃を与えた。
時宗
時宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:36 UTC 版)
西楽寺 発端は彦島十二苗祖の植田氏、岡野氏、百合野氏が彦島に来島してきた際に迫町に安置した平重盛の守り本尊である阿弥陀如来本尊で、これを一遍の従者、西楽法師が本村に「西堂山西楽庵」を立てて移したものである。西南戦争のときは戦争により負傷した兵士の病院としても使われた。山号は正覚山で現在の彦島本村町にある。 また、本尊(正式名称:阿弥陀如来坐像)は昭和60年(1985年)12月19日、下関市有形文化財に指定された。この本尊は天武天皇が白鳳6年(678年)に仏師の賢問子に作らせた仏像であるという言い伝えがあり、かつては東大寺に安置されていたとも言われている。その後、承安4年(1174年)に平重盛が壇ノ浦の戦いで敗戦したのち、守り本尊として十二苗祖らと共に彦島へ渡った。 寺内には石碑が入口付近と端にそれぞれ1つずつある。碑文は以下の通り。旧字を含む場合は()で現在一般的に使われる文字を示した。(入口付近の石碑) 平重盛公守護佛(仏) 彦島開闢尊像安置 (端) 山林二反六畝廿一歩 寄附(付)者下関市豊前田町櫃本豊三郎 現住岸學(学)雄代 維持大正九年六月四日 卋(世)話人阿波田亦吉
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時宗
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古くは「阿弥陀仏」号を付けた。観阿弥、世阿弥はその崩れである。現在では男性にその略である「阿」号、女性には「弌」(いち)号をつけるのが原則である。阿弥陀仏号は重源が「南無阿弥陀仏」と自称したことを起源とし、成仏したことを意味する。女性も当初は阿弥陀仏号であったが、一遍は「一房」号や「仏房」号を与えた。「一仏乗」からとったという。弌号はその名残りである。
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時宗
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時宗を創始した一遍智真(1239年-1289年)は諸国を遍歴し遊行を行い、信濃国佐久郡伴野荘で踊念仏を開始する。甲斐国には二世他阿真教(1237年-1319年)によりもたらされ、一蓮寺(甲府市太田町)をはじめ長泉寺(北杜市須玉町)、一行寺(笛吹市春日居町桑戸)、九品寺(笛吹市御坂町成田)、称願寺(笛吹市御坂町黒駒)、西念寺(富士吉田市)などの寺院が創建されている。真教は一遍没後に諸国を遊行し、神奈川県の清浄光寺などに写本が伝来する「遊行上人縁起絵」には甲斐国を遊行する真教が描かれている。 「遊行上人縁起絵」巻7には中河(笛吹市石和町)で和歌を書き与える姿が描かれ、巻8では小笠原道場(南アルプス市小笠原)で説法中に乱入した日蓮宗徒と法論を行う場面や、御坂峠を越え河口(富士河口湖町)に至り、同行した板垣入道と別れ相模国へ至り、持仏堂に篭った板垣入道が真教の御影を前に往生を遂げる場面が描かれている。 「遊行上人縁起絵」詞書には年紀が記されていないため真教の甲斐国遊行の時期やルートは不明であるが、甲斐の時宗寺院はおおむね「遊行上人縁起絵」に記されるルート上に立地している。 真教は甲斐国遊行前に北陸地方から信濃国へ至り、永仁2年に(1294年)信濃善光寺を参籠し、一遍ゆかりの佐久郡伴野荘で歳末別事を催している事情から、甲斐国へは永仁3年に巨摩郡北部から入国した可能性が考えられている。 真教の遊行に助力したのが甲斐源氏の一族で、甲斐一条氏の一条時信は真教に帰依し、弟の宗信(法阿弥陀仏朔日)が弟子となり正和元年(1312年)に一蓮寺が創建される。また、「遊行上人縁起絵」に描かれる板垣入道も武田信義の子板垣兼信の子孫であると考えられている。
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時宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:29 UTC 版)
証誠大師一遍(1239-1289)踊り念仏で布教。遊行上人とも。時宗開祖。
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時宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
鎌倉時代中期に「遊行上人」と呼ばれた一遍は、熊野権現の神託により念仏の信仰を深め、身分の上下や貴賤の別、穢れの有無、また善人・悪人の区別、さらには信心の有無をさえ問うことなく、万人は阿弥陀仏によって救われるのであり、その喜びは念仏によってあらわされるべきだと説いた。北は陸奥国江刺から南は薩摩国・大隅国に至る諸国を遍歴し、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と刷られた札を配り、阿弥陀仏への感謝を踊りで表現する踊念仏を通じて民衆や武士に教えをひろめた。この教えは、その場に居合わせた人がつくる集団という意味で当初は「時衆」と呼ばれた。これが今日の時宗である。一遍は生前に自らの著作を全部焼いてしまったが、死後、弟子たちが『一遍上人語録』としてその教義をまとめた。 一遍没後、他阿弥陀仏(真教)があらわれ、遍歴をつづけながら時衆をまとめていったが、その後、他阿弥陀仏の直系(遊行派)と奥谷派、六条派、四条派、一向派など他の諸派 のあいだに様々な確執や緊張をともないながら、時宗の教団が確立されていった。こうした状況は、一遍や他阿弥陀仏同様、当時は各地を遍歴する聖が多数いてみずからの教えをひろめていた事実を反映している。時宗の本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺である。
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