そうとう‐しゅう〔サウトウ‐〕【曹▽洞宗】
曹洞宗
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曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。
注釈
出典
- ^ a b Bodiford, William M. (2006). “Remembering Dōgen: Eiheiji and Dōgen Hagiography”. Society for Japanese Studies 32 (1): 1–21. doi:10.1353/jjs.2006.0003. ISSN 1549-4721 .
- ^ a b 増永霊鳳「曹洞宗」『世界大百科事典』第13巻、平凡社、722頁、1969年(原著1968年)。
- ^ a b 佐藤秀孝、「自得慧暉とその禅風」『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』 1980年 14巻 p.94, NCID AN00093698, 駒澤大学大学院仏教学研究会
- ^ 『今日から役立つ仏教』95頁正木晃執筆
- ^ 村上専精 『日本佛教史綱』(下巻) 創元社、1939年
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ 会社概要 東京グランドホテル
- ^ a b 機構 - 曹洞宗「曹洞禅ネット」公式ページ
- ^ 深瀬俊路, 「明治期曹洞宗における宗教運動」『印度學佛教學研究』 1990-1991年 39巻 2号 p.770-773, 日本印度学仏教学会, doi:10.4259/ibk.39.770, NAID 110002661610。
- ^ 曹洞宗に賠償請求 多々良学園破たんで共同通信2006年8月16日
- ^ “曹洞宗選挙で買収 一関の住職、「有権者」に最大10万円”. 河北新報. (2011年1月30日). オリジナルの2011年2月2日時点におけるアーカイブ。 2011年1月30日閲覧。
曹洞宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:44 UTC 版)
詳細は「中国における曹洞宗」を参照 晩唐の洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国の荊南や南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程度である。 北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。 南宋代には、子淳の下から宏智正覚、真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。 河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、金代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫や雪庭福裕、耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、元朝において、道教の全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、明の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。 元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。
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曹洞宗
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詳細は「曹洞宗#日本における曹洞宗」を参照 以下は曹洞宗の法系の一例である。 釈迦-(中略)-大鑑慧能-青原行思-石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗玨-雪竇智鑑-天童如浄-永平道元-孤雲懐奘-徹通義介-瑩山紹瑾-... 六祖曹渓慧能と洞山良价から曹洞宗とした。日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。 道元は自分の教えは「正伝の仏法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。 初期は在家への布教にも熱心であったが、晩年は出家第一主義の立場を取った(『正法眼蔵』十二巻本参照)。その後、總持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式や密教の考え方も取り入れられ、一般民衆に対し全国的で急速な拡大をした。 曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことが、そのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが、公案そのものを否定しているわけではない。また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。
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曹洞宗
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佛性伝東国師 - 道元(1200- 1253)曹洞宗の開祖。承陽大師。永平寺開山。 道光普照国師 - 孤雲懐奘(1198- 1280)曹洞宗の教義普及に尽力。永平寺2世。 弘徳圓明国師 - 瑩山紹瑾(1268- 1325)曹洞宗を日本全国に広めた中興の祖。總持寺開山。
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曹洞宗
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「戒名」または「安名」の名称を用いる。院号、道号、戒名、位号の順につけるが、院号がない場合もある。院号・位号は諡名であり没後に付けるのが通常である。単に△△□□(道号・戒名)の4文字か□□(戒名)の2文字もしくはこれに位号の信士・信女(在家信者の意、禅を行じる信者として居士・大姉を付ける例もある)が付いたものが与えられる。
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曹洞宗
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承陽大師道元★(1200-1253)日本曹洞宗高祖。主著『正法眼蔵』を著す。 常済大師瑩山(1268-1325)日本曹洞宗太祖。曹洞宗の一般民衆への布教を図った。
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曹洞宗
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いっぽう、宋より曹洞宗を伝えた道元は、土御門通親の子息 でありながら、帰国後は世俗的な権勢を拒否して都をはなれ、波多野義重の招きに応じて越前国に向かい、永平寺 で坐禅中心のきびしい修行(只管打坐)と弟子の育成に努めた。国文で記された主著『正法眼蔵』は、その存在論や時間論、言語論は現代においても注目されている。道元は、師の如浄の教えにしたがって権勢より離れ、世俗化した当時の仏教については根本からこれを批判し、仏陀本来の精神に立ち帰ることを唱えた。その点では、道元の思想もまた仏教の純化を指向するものであった。坐禅の修行そのものが悟りであるという修証一等を唱えた曹洞禅は、北陸地方を中心とする地方武士のあいだに広まっていった。 この時代の遁世僧は、禅宗のみならず律宗や時宗などもふくめ、一般に顕密諸宗の官僧にくらべて諸国間を移動することが多かった。特に禅宗の場合は各地に「旦過」と称する宿泊施設を設けて僧の逗留に資している。
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曹洞宗
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永平寺、總持寺の貫首は、代々慣習として禅師号が朝廷から下賜されている。 妙応光国慧海慈済禅師 - 東陵永璵(1285-1365)南禅寺23世、円覚寺26世、建長寺32世。雲巌禅寺開山。東陵派の祖。
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曹洞宗
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日本曹洞宗の道元禅師(高祖承陽大師)が宋から帰国する前夜に、白山権現が碧巌録の写本を助けたとの伝承がある。このことから曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦する。 『洞谷記』には太祖瑩山禅師が白山氏子と記されている。 加賀禅定道、檜新宮附近の湧水は「大乘寺御仏供水」と呼ばれ、当時野々市にあった大乘寺境内の井戸と繋がっていると言われる。2018年より湧水周囲及び湧水までの登山道を大乘寺が国から借り受け管理している。
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