入滅とは? わかりやすく解説

にゅう‐めつ〔ニフ‐〕【入滅】

読み方:にゅうめつ

[名](スル)滅度すなわち涅槃にはいること。釈迦(しゃか)の死、高僧などの死にいう。


にゅうめつ 【入滅】

滅度涅槃)に入ることだが、涅槃が死を意味するところから、一般に釈尊の死や聖者死にいう。入寂とも。→ 涅槃

入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 03:31 UTC 版)

入滅(にゅうめつ)は、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。




「入滅」の続きの解説一覧

入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「入滅」の解説

正平12年/延文2年10月9日1357年11月21日)、文観弘真河内国金剛寺大門往生院入滅した数え80歳の長寿だった。 律宗高僧享年を見ると、真言律宗叡尊90歳・忍性85歳信空87歳で、融通念仏宗の導御(円覚上人)は88歳であり、律僧概して長命の者が多いようである。 なお、これより少し前の閏7月16日には、将軍足利尊氏護持僧として室町幕府北朝支えた東寺長者醍醐寺座主賢俊入滅していた。奇しくも南朝北朝それぞれの仏教界の巨星が、全く同じ年に世を去ることになったその後写本群で、金剛寺学頭の禅恵は自身文観の「門弟随一」と誇らしげ記しており、この表現からすれば、入滅時点ではまだ文観には数多く弟子がいたようである。しかし、その後南朝の有力真言僧は記録不明な者が多く南朝没落とともに文観学派徐々に歴史から消えていくことになる。 文観が関わった現存最後美術作品は、入滅2年前の正平10年/文和4年1355年1月17日完成した大威徳転法輪曼荼羅個人)である。これは大絵師称する法眼雅によって描かれ文観開眼供養行って完成した作例である。大威徳転法輪法は降伏法であるため、正平一統後に京を逐われた後村上天皇による、対北朝降伏法本尊としての意図もある可能性が、林温らによって指摘されている。表背上方貼紙には「御開□□□□□□務前大僧正」とあり、完成後のある時点で、文観の名はおそらく故意削り取られている。 南朝衰退後北朝書かれ軍記物語『太平記』1370年ごろ完成)や宥快による仏教書『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年1375年))などの影響によって、文観醜悪な妖僧という人物像広まっていくことになった文観歴史的実像解明され、名誉が回復されたのは、入滅後650年ほど経った21世紀初頭のことである。

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入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:21 UTC 版)

マハーヴィーラ」の記事における「入滅」の解説

マハーヴィーラは、72歳マガダ国パータリプトラ(現パトナ市)近郊のパーヴァー現在のパーワープリー)で生涯閉じた断食続行したままの死であったといわれるジャイナ教では彼は第24祖(24番目のジナ)として扱われる。 彼がその生涯終えたことは、ジャイナ教においては、死とは見なされていない。それは涅槃ニルヴァーナ)に到達したであって、魂は天空の最頂に達し、そこに永久にとどまったとされている。ジャイナ教では、これをモークシュ(Moksh、解脱)と称して祝日としている。 マハーヴィーラ入滅の年はいまだ論争の的であるが、ブッダ涅槃先だつ数年前できごととされる伝承によればマハーヴィーラ死去した際、俗人大規模な共同体のほか、1万4000人の僧侶(サードゥ, sādhu)と36000人の尼僧(サードゥヴィー, sādhvī)がいたといわれる

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入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 00:39 UTC 版)

摩訶波闍波提」の記事における「入滅」の解説

摩訶波闍波提の入滅について、原始仏教聖典には次のように記される釈迦ヴァイシャーリー講堂にいた。その時摩訶波闍波提比丘らが「釈迦が3か月後に入滅する」と話しているのを耳にした。摩訶波闍波提は、釈迦阿難入滅するのを見るのは耐えられない考え釈迦訪ねて先に入滅することを願い出る釈迦は、これを黙して許した500人の比丘尼同様に許された。摩訶波闍波提は、神通示して入滅した釈迦は、阿難難陀らを率いて摩訶波闍波提の寺に行き、自ら舎利供養した。 — 『増一阿含』 この時の摩訶波闍波提年齢120歳とする記述や、500人の釈女が同時に入滅した事など、いくつかの点は史実とは考えにくいが、多く経典共通する伝承であり、らは無視できないとしている。

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入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:28 UTC 版)

「釈迦」記事における「入滅」の解説

詳細は「仏滅」を参照 やがて雨期終わって釈迦は、ヴァイシャーリー托鉢に戻ると、アーナンダ促して、チャーパーラ廟へ向かった永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者教え神通力について説いた托鉢終わって釈迦は、これが「如来ヴァイシャーリー見納めである」と言いバンダ村 (bhandagāma) に移り四諦説き、さらにハッティ (hatthigāma)、アンバ (ambagāma)、ジャンブ (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法説き仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧三学説いた釈迦は、ここで鍛冶屋チュンダのために法を説き供養受けたが、激し腹痛訴えようになった。カクッター河で沐浴して、最後歩みマッラ国クシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行きサーラ横たわり、そこで死んだ80歳没。 「 悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。 」 「 アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である。 」 仏教では死を入滅、釈迦の入滅仏滅と言う腹痛原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない

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入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「入滅」の解説

日蓮は、建治3年1277年)の暮れ胃腸系の病を発し医師でもある四条金吾治療受けていたが、一時的に回復して病状次第進行していった。弘安4年1281年5月には日蓮自身自己の死が迫っていることを自覚するまでになった同年12月には門下への書簡執筆困難になっている。 日蓮病状弘安5年1282年)の秋にはさらに進み寒冷な身延の地で年を超えることは不可と見られる状況になっていた。そこで門下協議し、冬を迎え前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国現在の茨城県)の温泉考えられる。それがどこの温泉諸説あるが、今日では波木井実長次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。 日蓮は、9月8日波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延出発した富士山北麓回り箱根経て18日武蔵国荏原郡現在の東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱進んでそれ以上の旅は不可となった日蓮到着翌日日興口述筆記させて波木井実長宛て書簡記したその中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに自身の墓を身延設けるよう要請している。 日蓮池上邸に滞在していることを知って鎌倉四条金吾大学三郎富士南条時光下総富木常忍大田乗明など主要な門下参集してきた。9月25日門下前に日蓮「立正安国論」講義行った。これが日蓮最後説法となった10月8日には日昭日朗日興日向日頂日持の6人を本弟子六老僧)と定めた。 なお、日興門流では日蓮の入滅前に日興に対して付嘱なされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。 日蓮は、弘安5年1282年10月13日多く門下見守られ池上兄弟の館で入滅した。入滅に先立って日蓮は、自身所持してきた釈迦仏立像注法華経墓所傍らに置くことと本弟子6人が墓所香華当番に当たるべきことを遺言している。

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入滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:56 UTC 版)

親鸞」の記事における「入滅」の解説

弘長2年1262年11月28日グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路万里小路東にある実弟尋有院主である「善法院 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する臨終は、親鸞の弟の尋有末娘覚信尼らが看取った遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯渡り非僧非俗立場貫いた荼毘の地は、親鸞曾孫本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。 頂骨と遺品多く弟子の善性らによって東国運ばれ東国布教聖地である「稲田草庵」に納められたとも伝えられる

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