入滅
入滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日)、文観房弘真は河内国金剛寺大門往生院で入滅した。数え80歳の長寿だった。 律宗の高僧の享年を見ると、真言律宗の叡尊は90歳・忍性は85歳・信空は87歳で、融通念仏宗の導御(円覚上人)は88歳であり、律僧は概して長命の者が多いようである。 なお、これより少し前の閏7月16日には、将軍足利尊氏の護持僧として室町幕府と北朝を支えた東寺長者・醍醐寺座主の賢俊も入滅していた。奇しくも、南朝と北朝それぞれの仏教界の巨星が、全く同じ年に世を去ることになった。 その後の写本群で、金剛寺学頭の禅恵は自身を文観の「門弟随一」と誇らしげに記しており、この表現からすれば、入滅時点ではまだ文観には数多くの弟子がいたようである。しかし、その後の南朝の有力真言僧は記録の不明な者が多く、南朝の没落とともに、文観の学派は徐々に歴史から消えていくことになる。 文観が関わった現存最後の美術作品は、入滅2年前の正平10年/文和4年(1355年)1月17日に完成した大威徳転法輪曼荼羅(個人蔵)である。これは大絵師を称する法眼厳雅によって描かれ、文観が開眼供養を行って完成した作例である。大威徳転法輪法は降伏法であるため、正平一統後に京を逐われた後村上天皇による、対北朝の降伏法本尊としての意図もある可能性が、林温らによって指摘されている。表背上方の貼紙には「御開眼□□□□□□務前大僧正」とあり、完成後のある時点で、文観の名はおそらく故意に削り取られている。 南朝衰退後、北朝で書かれた軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)や宥快による仏教書『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))などの影響によって、文観は醜悪な妖僧という人物像が広まっていくことになった。文観の歴史的実像が解明され、名誉が回復されたのは、入滅後650年ほど経った21世紀初頭のことである。
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入滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:21 UTC 版)
マハーヴィーラは、72歳でマガダ国のパータリプトラ(現パトナ市)近郊のパーヴァー村(現在のパーワープリー)で生涯を閉じた。断食を続行したままの死であったといわれる。ジャイナ教では彼は第24祖(24番目のジナ)として扱われる。 彼がその生涯を終えたことは、ジャイナ教においては、死とは見なされていない。それは涅槃(ニルヴァーナ)に到達したのであって、魂は天空の最頂に達し、そこに永久にとどまったとされている。ジャイナ教では、これをモークシュ(Moksh、解脱)と称して祝日としている。 マハーヴィーラ入滅の年はいまだ論争の的であるが、ブッダの涅槃に先だつ数年前のできごととされる。伝承によれば、マハーヴィーラが死去した際、俗人の大規模な共同体のほか、1万4000人の僧侶(サードゥ, sādhu)と3万6000人の尼僧(サードゥヴィー, sādhvī)がいたといわれる。
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入滅
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摩訶波闍波提の入滅について、原始仏教聖典には次のように記される。 釈迦はヴァイシャーリーの講堂にいた。その時、摩訶波闍波提が比丘らが「釈迦が3か月後に入滅する」と話しているのを耳にした。摩訶波闍波提は、釈迦や阿難が入滅するのを見るのは耐えられないと考え、釈迦を訪ねて先に入滅することを願い出る。釈迦は、これを黙して許した。500人の比丘尼も同様に許された。摩訶波闍波提は、神通を示して入滅した。釈迦は、阿難や難陀らを率いて摩訶波闍波提の寺に行き、自ら舎利を供養した。 — 『増一阿含』 この時の摩訶波闍波提の年齢を120歳とする記述や、500人の釈女が同時に入滅した事など、いくつかの点は史実とは考えにくいが、多くの経典に共通する伝承であり、森らは無視できないとしている。
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入滅
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詳細は「仏滅」を参照 やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた。 托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。 釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。80歳没。 「 悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。 」 「 アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である。 」 仏教では死を入滅、釈迦の入滅を仏滅と言う。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。
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入滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。弘安4年(1281年)5月には日蓮自身、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。同年12月には門下への書簡の執筆も困難になっている。 日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国(現在の茨城県)の温泉と考えられる。それがどこの温泉か諸説あるが、今日では波木井実長の次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。 日蓮は、9月8日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発した。富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。日蓮は到着の翌日、日興に口述筆記させて波木井実長宛ての書簡を記した。その中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに自身の墓を身延に設けるよう要請している。 日蓮が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の富木常忍、大田乗明など主要な門下が参集してきた。9月25日、門下を前に日蓮は「立正安国論」の講義を行った。これが日蓮の最後の説法となった。10月8日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定めた。 なお、日興門流では日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。 日蓮は、弘安5年(1282年)10月13日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した。入滅に先立って日蓮は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と注法華経を墓所の傍らに置くことと本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言している。
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入滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:56 UTC 版)
弘長2年(1262年)11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。 荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。 頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
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