あしかが‐たかうじ〔‐たかうぢ〕【足利尊氏】
足利尊氏 (あしかがたかうじ)
足利尊氏
作者村上元三
収載図書時代小説大全集 3 人物日本史 古代・戦国
出版社新潮社
刊行年月1990.9
シリーズ名新潮文庫
足利尊氏
足利尊氏
足利尊氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 02:03 UTC 版)
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日本の武将。室町幕府初代征夷大将軍[2](在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。正式名称は足利又太郎源尊氏(あしかがまたたろうげんたかうじ)。
注釈
- ^ a b 『賢俊僧正日記』『足利家官位記』により尊氏の誕生の年は判明する[5]。一方、森茂暁による評伝・清水克行の評伝ともに日付までは記載していない[6][5]。
- ^ 尊氏は観応の擾乱末期に行われた正平の一統により、短期間(1351年 - 1352年)ではあるが南朝に降っている[1]。伝統的通説では政治的権力を保持するための便宜上の策略であったとされる[1]。一方、日本史研究者の亀田俊和は、不本意な事情で後醍醐と敵対してしまった尊氏は、以前から南朝と和睦する好機を窺っており、この講和にも本心かつ真剣であったのではないかとしている[1]。
- ^ 兄高義の子とする説もある。
- ^ 『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」の尊氏の付記に「元應元年叙從五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」とある(参考:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(所収:『中央史学』二、1979年)P.11))。
- ^ 『公卿補任』に「足利源尊氏二十九 八月五日叙。元左兵衛督從四位下。今日以高字爲尊。同日兼武蔵守。」とある(新訂増補国史大系本より)。『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)にも「元弘三年……同八月五日叙從三位。越階。同日兼武蔵守。今日以高爲尊。」と同様の記述が見られる。『太平記』でも「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とあり、後醍醐天皇からの一字拝領であることが窺える。但しこの文章は、巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」にあり、すなわち2年後の中先代の乱(詳細は本文を参照)の時の改名としているが、実際には『公卿補任』や『足利家官位記』が示す1333年8月5日が正確と考えられている(後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注 『太平記』、日本古典文学大系、岩波書店)。
- ^ 尊氏は出家や遁世を願ったり、『太平記』では劣勢となった尊氏が切腹をしようとして周囲に止められたという創作により精神的に不安定(双極性障害)であったのではないかと佐藤進一氏は唱えているが、医学的根拠も引用文献もなく、近年その行き過ぎた説が尊氏像を不透明にさせていると問題視されている。
- ^ この願文は文法や文字に乱れが大きい。
- ^ 建武3年(1336年)まで南北朝分裂はしていない。
- ^ 建武3年(1336年)以前の所在地は京都、それ以降は南北朝統一まで奈良。
- ^ 「南家伊東氏藤原姓大系図」伊東祐重項の傍注に「……祐重継家尊氏公賜御字改氏祐」とある。同系図は、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料偏 古代・中世』(2006年)にて活字化されている。
出典
- ^ a b c 亀田 2017, §5.2 正平の一統――尊氏、南朝方に転じる.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 29頁。
- ^ 紺戸 1979, pp. 11–14.
- ^ 臼井信義 著「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」、田中大喜 編『下野足利氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年、69頁。
- ^ a b c 森 2017, §足利尊氏関連年表.
- ^ 清水 2013, pp. 19–20.
- ^ 清水 2013, pp. 20–22.
- ^ a b 清水 2013, p. 20.
- ^ a b c d e f 櫻井彦 樋口州男 錦昭江『足利尊氏のすべて』2008年 新人物往来社
- ^ a b 前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0
- ^ a b 新井孝重『護良親王:武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』2016年 ミネルヴァ書房
- ^ 奥富敬之「『吾妻鏡』の編纂者と編纂目的を探る」
- ^ 『足利尊氏』 - コトバンク
- ^ 森 2017, §4.3.2 尊氏の発給文書.
- ^ 森 2017, §4.3.4 義詮の発給文書.
- ^ 森 2017, §5.1.3 将軍権力の一元化.
- ^ 森 2017, §はじめに.
- ^ 亀田 2017, §終.3 その後の室町幕府――努力が報われる政権へ.
- ^ a b 瀬野精一郎『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.174
- ^ 亀田 2017, §終.3.6 合理化する訴訟.
- ^ a b 『臥雲日件録抜尤』〉享徳4年正月19日条
- ^ 「日月図軍扇」 九州国立博物館蔵。尊氏の花押と、「観応2年(1351年)正月七日津の国宿河原」で拝領した旨を記した小片が挟まれている。
- ^ 江田郁夫 「コラム 戦場の足利尊氏」峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年、pp.135-144。
- ^ 清水(2013)pp.40-42。
- ^ 底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房 1976(昭和51)年5月25日初版発行
- ^ a b c 谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」 芥川龍男編『日本中世の史的展開』(文献出版、1997年)所収
- ^ a b c d e 佐藤 2005, pp. 139–141.
- ^ 佐藤 2005, pp. 136–138.
- ^ a b c d e f g h 呉座 2014, §3.3 足利尊氏は躁鬱病か?.
- ^ a b 呉座 2014, 第三章 南北朝内乱という新しい「戦争」>「政道」を任された弟.
- ^ a b 亀田 2017, 第1章 初期室町幕府の体制>2 創造と保全――将軍足利尊氏と三条殿直義の政治機能の分担.
- ^ 亀田 2017, 第1章 初期室町幕府の体制>1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者.
- ^ 上島有.
- ^ 亀田 & 室町幕府執事施行状の形成と展開 : 下文施行システムを中心として.
- ^ a b 森 2017, 終章 果たして尊氏は「逆賊」か>足利尊氏の死去.
- ^ 豊永聡美「後光厳天皇と音楽」(初出:『日本歴史』567号(1998年)/所収:豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P130-151)
- ^ 田中久夫「賢俊」『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。
- ^ a b c d e 福永酔剣「ほねばみ【骨喰み】」『日本刀大百科事典』 5巻、雄山閣、1993年、28–30頁。ISBN 4-639-01202-0。
- ^ 梅松論下 1928, p. 129.
- ^ a b c 福永酔剣「おさふねかじ【長船鍛冶】」『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣、1993年、217–221頁。ISBN 4-639-01202-0。
- ^ a b c 福永酔剣「かねみつ【兼光】」『日本刀大百科事典』 2巻、雄山閣、1993年、33–35頁。ISBN 4-639-01202-0。
- ^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 112(秋田書店、1974年)
- ^ 森 2017, はじめに.
- ^ 森 2017, おわりに.
- ^ 亀田 2017, 第6章 新体制の胎動>2 正平一統の破綻と武蔵野合戦.
- ^ 亀田 2017, 終章 観応の擾乱とは何だったのか?>3 その後の室町幕府――努力が報われる政権へ.
- ^ a b c d 佐藤 2005, pp. 129–130.
- ^ a b c d 佐藤 2005, pp. 130–131.
- ^ 佐藤 2005, pp. 131–132.
- ^ a b c 細川 2016, pp. 86–89.
- ^ e国宝に画像と解説有り(外部リンク)
- ^ 武田左京亮文秀像に寄せた蘭坡景茝の賛文(『雪樵独唱集』収録)
- ^ 宮島新一『肖像画』吉川弘文館、1994年、pp.235-240、ISBN 4-642-06601-2。同『肖像画の視線』吉川弘文館、2010年、pp.29-35、ISBN 978-4-642-06360-9。
- ^ 藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年、pp.164-189、ISBN 978-4-642-07762-0。
- ^ 下坂守「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号、1982年。京博公式サイトに掲載(PDF)
- ^ 黒田日出男 『肖像画を読む』角川書店、1998年
- ^ 見慣れた肖像画は別人?「足利尊氏像」→「騎馬武者像」 源頼朝像の真偽も… - 産経新聞WEST、2013年3月27日
- ^ 足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見 - 朝日新聞DIGITAL、2017年10月27日
- ^ 『企画展 名馬と武将』馬の博物館 2019年
- ^ 国立国会図書館デジカル化資料(外部リンク)。
- ^ 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年)P.13)。
- ^ 『瑞石歴代雑記』。詳細は当該項目(六角氏頼の項)を参照のこと。
- ^ “足利市イメージキャラクター「たかうじ君」を紹介します!”. 足利市役所 (2023年2月1日). 2023年9月27日閲覧。
足利尊氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 08:46 UTC 版)
後醍醐天皇と仲が悪い。
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足利尊氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 13:38 UTC 版)
建武2年(1335年)に、信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、鎌倉を一時占拠するに至った。足利尊氏は討伐を願い出て、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、結局、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉へ向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は時行を駆逐して、鎌倉を奪還することに成功した。
※この「足利尊氏」の解説は、「征東大将軍」の解説の一部です。
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足利尊氏(あしかが・たかうじ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:01 UTC 版)
「ダブルクロス・リプレイ・ジパング」の記事における「足利尊氏(あしかが・たかうじ)」の解説
室町幕府の初代将軍。アーサー王と融合し「足利・アーサー・尊氏」を名乗っていた。円卓の騎士と融合した足利将軍家十五人によって構成されたサッカーチーム「足利ペンドラゴンズ」を率いて京都を襲撃し、民衆を熱狂的なファンにした。才蔵と浄ノ進にサッカー対決を挑んだが、あっさり敗北。ボールとユニホームを手渡し、爽やかに消え去った。
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足利尊氏(あしかが たかうじ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:44 UTC 版)
「バンデット -偽伝太平記-」の記事における「足利尊氏(あしかが たかうじ)」の解説
廃嫡(表向きは夭折)された兄・高義に代わる足利家の現嫡男、後に足利家当主となる。平和を愛する心優しい青年だが、同時に天賦の軍事的才覚と戦場でそれを発揮することに喜びを感じる心を併せ持ち、その狭間で苦悩している。出家も考えているが、その一方で父の遺言通り天下を狙い、石のような好敵手と戦う事も待ち望んでいる。
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