武蔵国司とは? わかりやすく解説

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武蔵国司

(武蔵守 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 14:09 UTC 版)

武蔵国司(むさしこくし)は、武蔵国国司。武蔵は延喜式の定める大国(たいごく)であるため、守(1名)・介(1名)・掾(大・少、各1名)・目(大・少、各1名)の他に司生(3名)など9名前後を置いた。但し、宝亀6年(775年)には少目2員と増員している。[1]養老律令官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、大介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。10世紀末には武蔵国府が衰亡し、令制における国司の実質は廃れたと推定される。


  1. ^ 続日本紀』、宝亀6年(775年)3月2日 (旧暦)の条
  2. ^ 僧・恵亮は深大寺(現在の東京都調布市)を再興した人物。
  3. ^ 当時、関東地方には荷役運送を生業とした在地有力層とみられる「蹴馬之党」と呼ばれる賊徒が横行し官物を奪い国衙に抵抗していたという(『類聚三代格』)。
  4. ^ 府中市の発掘調査により、武蔵国府跡から、国司の存在を示す「大館」・「大目舘」・「目」・「守」銘(墨書)のある土器片が出土している。
  5. ^ 武芝は武蔵判官代であったとされる。
  6. ^ この頃の国守の勢威を示すものとして、武蔵ではかつて将門追捕時の押領使だった武蔵守・平公雅浅草寺伽藍を再興したとされる(「六所の社壇」『六所宮勧請』)
  7. ^ 藤原行実は康和5年2月に武蔵守に任ぜられた(『本朝世紀』)が同年8月に死去したので代わって源顕俊が武蔵守となった(『中右記』)。→参考文献の1、178頁。
  8. ^ 秩父氏惣領家はのちに河越氏を称している。
  9. ^ 日本史史料研究会編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(吉川弘文館、2018年)P133
  10. ^ 『大日本史』「国郡司表」では延喜17年4月 任、→参考文献の3、219頁
  11. ^ 菅原輔正の子。小手指北野天神社項目参照
  12. ^ 『大日本史』「国郡司表」では1256年長元元年〉1月 重任)→参考文献の3、220頁
  13. ^ 『大日本史』「国郡司表」では1229年〈大治4年〉12月 任)→参考文献の3、220頁
  14. ^ 『大日本史』「国郡司表」では1184年〈寿永3年〉2月 戦死)→参考文献の3、221頁


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