かまくら‐ばくふ【鎌倉幕府】
鎌倉幕府
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鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。
注釈
- ^ ただし近年では逆に、武士の起源を有力農民ではなくて貴族の側とする見解が主流となった。詳細は『軍事貴族』『武士#「職能」武士の起源』の項目を参照。
- ^ 『百錬抄』寿永二年十月二十二日条によれば「十月十四日、(中略)東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」と記されている。『百錬抄』寿永二年十月二十日条参照。
- ^ 『吾妻鏡』には文治元年(1185年)10月18日以降の記述によれば「廿八、丁未、補任諸国平均守護地頭、不論権門勢家庄公、可充 課兵粮米段別五升之由、今夜、北条殿謁申藤中納言経房卿云々」とあるように、数度に渡り北条時政を通じて荘園公領を問わず反別五升の兵粮米の徴収権を与えられることを奏請した。さらに、九条兼実の日記『玉葉』によれば「二十九日、戊申、北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言勅を北条殿に伝えらると云々」と記されている。『吾妻鏡』文治元年十二月六日条、『玉葉』『吉記』文治元年十二月二十七日条。参照。
- ^ もっとも、北村拓 著「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」、今江廣道 編『中世の史料と制度』続群書類従完成会、2005年、137 - 194頁。のように、征夷大将軍はこの時代には完全に名誉職化しており、何らかの権限を付与されたものではないとする説もある。
- ^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年)3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[16]
- ^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[16]
- ^ これら学説については井上光貞前掲書、国史大辞典編集委員会編前掲『国史大辞典 3』などに詳しい。
出典
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- ^ 『太平記』巻十「信忍自害事」
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- ^ 安藤豊「歴史学習「鎌倉時代」に関する内容構成フレームの検討 : 中学校における中世史(「鎌倉時代」)学習内容再構築のための基礎的考察(その1)」『北海道教育大学紀要 教育科学編』第59巻第1号、北海道教育大学、2008年8月、40(p.39-42)、doi:10.32150/00005728、ISSN 13442554、NAID 110006825912。
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- ^ 佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9, p.13・150-151・182.
- ^ 『本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2898/3041』河出書房新社、2021年。
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- ^ a b c d e f g h i 永井 2009, pp. 40–42.
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- ^ 永井 2009, pp. 53–56.
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鎌倉幕府
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本来、守護には大犯三箇条の義務遂行のため、本人あるいはその代理である役人・使者の国内の公領・荘園への立ち入る権利が認められていたが、鎌倉幕府は国司や領家・本所(権門)との対立を回避するために、国司や領家・本所が守護による干渉を受けない特例地域を設ける事を承認していた。これは御成敗式目によって一層明確化され、不入地に犯罪者などが逃げ込んだ場合でもその追捕は国司・領家によって行われ、不入地の境界線で守護側に引き渡すと言う原則が成立した。
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鎌倉幕府
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武家においては鎌倉幕府の頃には惣領に対しては下文、庶子に対してはこれよりも格下の下知状をもって安堵状の書式としたが、嘉元3年(1303年)に安堵状を作成するのをやめ、前の権利者による譲状に外題安堵を行って下知状の代用とした。
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鎌倉幕府
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「炎立つ (NHK大河ドラマ)」の記事における「鎌倉幕府」の解説
源頼朝(みなもと の よりとも) 演:長塚京三 義家の玄孫で鎌倉幕府初代将軍。 平氏打倒の兵を挙げて義経と合流し、義経の活躍により平氏を滅亡させる。義経が無断で官位を得たことを理由に謀反人扱いし、義経が奥州に逃れたことを知ると、義経もろとも奥州藤原氏を滅ぼすことで奥州の支配を目論む。 源義経(みなもと の よしつね) 演:野村宏伸 同じく義家の玄孫で頼朝の異母弟。 京の五条大橋で弁慶と決闘。その様子を見ていた橘似らに武勇を認められ、奥州で青年時代をすごす。国衡が指南する馬術や弓術には積極的に取り組むが、泰衡が指南する国史の勉強には関心を示さず、泰衡を悩ませる。 頼朝の決起を知ると「二度と平泉には訪れない」と泰衡と約束を交わして平泉を起ち、頼朝の元に駆けつけ、源平合戦で活躍し平氏を滅亡させる。やがて頼朝と不仲になり、泰衡との約束について迷った末奥州に逃れる。秀衡の前で頼朝討伐の策を披露するなど復讐の機会をうかがっていたが、一方で自分の存在が平泉を危うくすることに心を痛めていた。 常盤御前(ときわ ごぜん) 演:松田美由紀 義経の母。 京で義経と再会し、奥州に逃れるつもりであることを知らされる。 義経の妻 演:高取茉南 頼朝に追われた義経と共に奥州に逃れてくる。 源行家(みなもと の ゆきいえ) 演:筑前翠瑶 頼朝の叔父。 多田蔵人行綱(ただ くろうど ゆきつな) 演:三田村周三 多田源氏。 北条時政(ほうじょう ときまさ) 演:本郷功次郎 頼朝の舅。 北条宗時(ほうじょう むねとき) 演:湯江健幸 時政の長男。 北条義時(ほうじょう よしとき) 演:黒樹洋 時政の次男。 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい) 演:時任三郎 義経の家臣。 佐藤継信(さとう つぐのぶ) 演:上田雄太 義経の家臣。 佐藤忠信(さとう ただのぶ) 演:小林良平 義経の家臣。 安達藤九郎盛長(あだち とうくろう もりなが) 演:勝部演之 御家人。 土肥実平(どい さねひら) 演:小野進也 御家人。 新田忠常(にった ただつね) 演:舘大介 御家人。 千葉胤頼(ちば たねより) 演:山口眞司 御家人。 三浦義村(みうら よしむら) 演:大森啓祠朗 御家人。 加藤景廉(かとう かげかど) 演:小野了 御家人。 佐々木高綱(ささき たかつな) 演:熊谷俊哉 御家人。 富樫泰家(とがし やすいえ) 演:渡辺哲 安宅の関守。 義経一行を見逃す。
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鎌倉幕府
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鎌倉幕府
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鎌倉幕府において雑務沙汰を所管したのは、東国については問注所、鎌倉市中については政所だった。
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鎌倉幕府
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鎌倉時代から徴収が行われたと推定されており、特に京都の土倉は延暦寺及びその傘下であった祇園社の支配を受けていたため、両者からの徴税を度々受けた他、朝廷からも臨時徴税を受けた。その徴税の頻繁ぶりは建武式目では土倉の保護について1条を置いているほどであった。
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「鎌倉幕府」の例文・使い方・用例・文例
- 鎌倉幕府における,公文所という行政機関
- 鎌倉幕府や室町幕府の政所の家司という職員
- 小侍所という,鎌倉幕府の役所
- 鎌倉幕府の侍所の次官
- 頭人という,鎌倉幕府の役職
- 庇番という,鎌倉幕府の役職
- 政所という,鎌倉幕府や室町幕府の政務機関
- 鎌倉幕府において,筆頭の当番人
- 鎌倉幕府や室町幕府の引き付け衆という役職
- 執権職という,鎌倉幕府の役職
- 執権職という,鎌倉幕府の役職にある人
- 鎌倉幕府という武家政府
- 鎌倉幕府という政権
- 侍所という,鎌倉幕府の政治機関
- 鎌倉幕府の執権という役職である人
- 鎌倉幕府を開いた源頼朝に関する文書も多く含まれている。
- 1219年に鎌倉幕府の3代将軍,源(みなもとの)実(さね)朝(とも)が暗殺されたとき,このイチョウの木は彼の暗殺者,僧侶である公(く)暁(ぎょう)の隠れ場所としての役割を果たしたと言われている。
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