山槐記とは? わかりやすく解説

さんかいき〔サンクワイキ〕【山槐記】

読み方:さんかいき

《「山槐」は中山右大臣の意》平安末期公卿中山忠親日記仁平元年(1151)から建久5年(1194)に至る源平抗争期記録


山槐記

読み方:サンカイキ(sankaiki)

分野 日記

年代 平安後期~鎌倉前期

作者 藤原忠親


山槐記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 13:39 UTC 版)

山槐記』(さんかいき)は、中山忠親日記。書名の「山槐」は忠親の家号「中山」と、大臣家の唐名(槐門)を合わせたもの[1]『貴嶺記』『達幸記』とも[1]

概要

仁平元年(1151年)から建久5年(1194年)までの40年間あまりの詳細な記事が残るが、欠けた年月も多く、一年間を通じた記事がある年はほとんどない[1]。忠親は藤原師実の曾孫であり、故実や朝儀に関する記述が充実している[1]

忠親は後白河院源頼朝に重用され、日記の現存期間は平氏の興隆から全盛、滅亡の時期にあたる。平氏政権時代から治承・寿永の乱での東国情勢などについて独自の記事も多く、重要史料として扱われている。保元の乱平治の乱の記事は欠けているが、治承2年(1178年)の安徳天皇誕生、同4年(1180年)の即位、元暦元年(1184年)の後鳥羽天皇の即位と大嘗会の記事は緻密で、忠親が朝儀や政界の情勢に通じていたことが分かる。平重盛の出家、清盛による大輪田泊の改修、以仁王の挙兵富士川の戦いなどにおいて、『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語とは異なる記述があり、史実との相違を示している。

後世の人物が編纂した『山槐記除目部類』には、『山槐記』の欠文を補う文が数多く記されている[1]。忠親の八代の孫に当たる中山定親は『達幸故実抄』を著し、『山槐記』の文章を抄出している[1]

江戸時代に作成された写本東山御文庫に収録されており、東京大学によりデータ化されたものが同大学史料編纂所図書室で参照可能となっている[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年4月、96頁。 
  2. ^ 京都御所東山御文庫本および同別置本 画像公開書目一覧”. 東京大学 (2016年). 2025年2月18日閲覧。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山槐記」の関連用語

山槐記のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山槐記のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山槐記 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS