藤原忠実とは? わかりやすく解説

ふじわら‐の‐ただざね〔ふぢはら‐〕【藤原忠実】

読み方:ふじわらのただざね

[1079〜1162]平安後期公卿摂政関白二男の頼長を推して長男忠通と対立保元の乱一因ともなった。頼長の敗死後、知足院籠居日記殿暦(でんりゃく)」がある。


藤原忠実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 13:59 UTC 版)

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿藤原北家関白藤原師通の長男。官位従一位摂政関白太政大臣准三宮。日記『殿暦』の著者。


注釈

  1. ^ その一方で、法皇は自分以外の者には決して見せなかった父・後三条天皇の宸記から部類記を作成するように忠実に命じて、完成した部類記をこの年の10月23日に堀河天皇に与えている[2]。これは天皇の補佐である摂関に必要な秘事を忠実に伝授すると同時に摂関である忠実を治天の君の指揮下に置こうとする方針があったと考えられている[3]
  2. ^ 麗子は顕房の妹であるため、師子とは叔母と姪の間柄となる。
  3. ^ 公実は鳥羽天皇の生母藤原苡子の兄にあたる。
  4. ^ もっとも、この謹慎期間にあっても忠実は大殿として摂関家領の経営を独占しており、後の政界復帰後に権力を振るえた背景には藤氏長者でありながら自領をほとんど持ちえなかった忠通が、忠実の経済力に依存せざるを得なかったからだとする見方もある[5]
  5. ^ 上皇へ入内した后妃が皇后になった前例はなかった。「太上皇以夫人立后例不聞」[6]
  6. ^ 樋口健太郎は忠通と頼長の養子縁組は将来忠通に男子が生まれれば、頼長はその子が成長するまでの「中継ぎ」となる性質のものであったが、実際に基実が生まれると実子の兼長を忠通の養嗣子にするように迫り[7]、事実上の廃嫡になった基実は高陽院(藤原泰子)の養子になってその所領の相続者とされた[8]。これに反発した忠通は最終的に兼長との縁組を解消して基実を後継者としたとする[7]
  7. ^ 当初、忠通は器量に欠けるといわれていた雅仁ではなくその子の守仁(後の二条天皇)の即位を望んだが、以前近衛天皇が重病になった時にこの奏上を行った際に、幼主を擁して忠通が専断するつもりであろうと鳥羽から不信を買った経緯があった(このため、鳥羽法皇は近衛天皇の病気は忠通の虚言ではないかと疑っていた)[9]。また、鳥羽が崩じた場合に崇徳が唯一の上皇として治天となる可能性が危惧されたため、一旦は雅仁を即位させた後に守仁に譲位させ雅仁を鳥羽の次の治天とすることが図られた[10]
  8. ^ 鎌倉時代に忠通の子孫である近衛家で作成された所領目録によれば、京極殿領は51か所・高陽院領は49か所あったという。
  9. ^ 『公卿補任』は22日とする。

出典

  1. ^ 台記』久安元年12月24日条
  2. ^ 『中右記』、作成経緯については『中外抄仁平元年7月6日条
  3. ^ 松薗斉『王朝日記論』法政大学出版局、2006年。 ISBN 978-4-588-25052-1 P43-47
  4. ^ 樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」(初出:『日本史研究』618号(2014年)/所収:『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P20-23.
  5. ^ 樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史研究』484、2002年/所収:樋口『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年
  6. ^ 長秋記
  7. ^ a b 樋口健太郎「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー-」(初出:元木泰雄 編『保元・平治の乱と平氏の栄華』〔中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻〕(清文堂出版、2014年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P168-170
  8. ^ 樋口健太郎「摂関家九条流の形成と女院」『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3 P188-189
  9. ^ 樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」(初出:『日本史研究』618号(2014年)/所収:『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P28-30.
  10. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」(『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  11. ^ 樋口健太郎「藤氏長者宣旨の再検討」(初出:『古代文化』63巻3号(2011年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3
  12. ^ 樋口、2018年、P239-240.
  13. ^ 樋口、2018年、P237-240.
  14. ^ 樋口、2018年、P234・240-241.
  15. ^ 戸川点「院政期の大学寮と学問状況」(初出:服藤早苗 編『王朝の権力と表象』(森話社、1998年)/所収:戸川『平安時代の政治秩序』(同成社、2018年)) 2018年、P33-35.
  16. ^ 荒木浩 2009, pp. 113–115.
  17. ^ 樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史研究』484、2002年/所収『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年。
  18. ^ 『後二条師通記』『中右記』
  19. ^ 台記康治元年(1142年)6月7日条より
  20. ^ 台記久安6年(1149年)7月2日条より


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藤原忠実(ふじわら の ただざね)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 06:21 UTC 版)

飛天のごとく」の記事における「藤原忠実(ふじわら の ただざね)」の解説

長の父親。前関白道長の孫の孫に当たる。

※この「藤原忠実(ふじわら の ただざね)」の解説は、「飛天のごとく」の解説の一部です。
「藤原忠実(ふじわら の ただざね)」を含む「飛天のごとく」の記事については、「飛天のごとく」の概要を参照ください。

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