藤原隆長とは? わかりやすく解説

藤原隆長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/09 01:03 UTC 版)

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藤原隆長
時代 平安時代末期
生誕 永治元年(1141年
死没 不明
改名 今麿(幼名)→隆長
官位 正四位下左近衛権中将
主君 近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原頼長、母:源師俊
兄弟 師長兼長隆長範長
養兄弟:多子徳大寺公能娘)
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藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族藤原北家御堂流左大臣藤原頼長の三男。官位は正四位下左近衛権中将

経歴

仁平元年(1151年)2月21日に侍従に任じられ[1]、同年5月26日に右少将[2]、7月24日に左少将に転任[3]、仁平2年(1152年)正月28日に従四位下に叙され[4]、同年9月9日に左近衛権中将に転任[5]、仁平ら3年(1153年)正月5日に正四位下に叙され(高陽院御給、二階、元従四位下)[6]、同月21日に紀伊権守を兼任した[7]。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定と共に青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父・忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。

保元元年(1156年)の保元の乱において父・頼長が敗死すると、兄弟達と共に一旦宇治の忠実の許に身を寄せるが、7月27日に左権中将を解官され、朝命によって8月3日に伊豆国へ配流された。詳細な年代は不明ながら、その後は都に帰還することなく配所で没した。

脚注

  1. ^ 『台記』
  2. ^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
  3. ^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
  4. ^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
  5. ^ 『兵範記』
  6. ^ 『兵範記』
  7. ^ 『山槐記』

出典





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