さ‐だいじん【左大臣】
ひだり‐の‐おおいもうちぎみ〔‐おほいまうちぎみ〕【左大=臣】
読み方:ひだりのおおいもうちぎみ
⇒さだいじん(左大臣)
ひだり‐の‐おとど【左大=臣】
読み方:ひだりのおとど
⇒さだいじん(左大臣)
左大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 08:03 UTC 版)
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。倭名類聚抄における和名は「於保伊萬宇智岐美」(おほいまうちきみ)[1][2]。
「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。
この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。
「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は次位の右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。
左大臣の一覧
贈左大臣の一覧
没後に左大臣を追贈された人物の一覧。
![]() |
この節の加筆が望まれています。
|
脚注
- ^ “古事記をそのまま読む―資料3”. 古事記をそのまま読む. 2025年7月22日閲覧。
- ^ “太 政 官”. 日本の歴史学講座. 2025年7月22日閲覧。
- ^ 『続日本紀』には左大臣転任のことが見えず、右大臣在職のまま薨去したとする。
- ^ 『公卿補任』同年条散位項は6月20日(7月7日)とする。
- ^ 『諸家伝』は8月とする。
- ^ a b c 『公卿補任』の記載に混乱があるため、遠藤珠紀 「足守木下家文書に残る三通の位記の再検討」(『日本歴史』第778号、2013年3月)の整理に従う。
- ^ 新葉和歌集作者。近世以来、阿野公廉・中院光忠・日野資朝に比定する見解が出されているが、何れも根拠に乏しく、定説には至っていない。
参考文献
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』 吉川弘文館 黒板勝美(編) ISBN 4642003568
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』 吉川弘文館 黒板勝美(編) ISBN 4642003576
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』 吉川弘文館 黒板勝美(編) ISBN 4642003584
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』 吉川弘文館 黒板勝美(編) ISBN 4642003592
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』 吉川弘文館 黒板勝美(編) ISBN 4642003606
関連項目
左大臣(さだいじん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/26 22:39 UTC 版)
娘の沙輪姫を中宮にし悪政を繰り広げていたため、白拍子に命を狙われることになる。しかし、その正体は緑水が手を貸して沙輪が作り出した人形。本当の左大臣は入内を拒んだ沙輪により殺されていた。
※この「左大臣(さだいじん)」の解説は、「緋桜白拍子」の解説の一部です。
「左大臣(さだいじん)」を含む「緋桜白拍子」の記事については、「緋桜白拍子」の概要を参照ください。
左大臣
「左大臣」の例文・使い方・用例・文例
左大臣と同じ種類の言葉
- 左大臣のページへのリンク