源融とは? わかりやすく解説

みなもと‐の‐とおる〔‐とほる〕【源融】

読み方:みなもとのとおる

[822〜895]平安前期公卿嵯峨天皇皇子。源の姓を賜り臣籍降下六条河原邸宅営み河原左大臣よばれた宇治に営んだ別荘はのちに平等院となる。


源融

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 21:02 UTC 版)

源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族嵯峨天皇の第十二皇子 [1](嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。河原院、河原大臣と呼ばれた[2]


注釈

  1. ^ 当時の「塩竈」は現在の松島湾一帯を指し、「塩竈の浦」「千賀の浦」「籬(まがき)の島」など、当地を歌枕とした和歌が多く存在することからも、都人憧れの地であったことがわかる。

出典

  1. ^ …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年12月、630頁。 
  3. ^ 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条
  4. ^ 日本三代実録』及び『中右記
  5. ^ 『日本三代実録』仁和三年八月廿五日丙寅・八月廿六日丁卯両条
  6. ^ 『勅撰作者部類』[要文献特定詳細情報]
  7. ^ 吉元昭治 『不老長寿への旅:ニッポン神仙伝』 集英社 1998 ISBN 4-08-781139-5 pp.124-125.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 『公卿補任』


「源融」の続きの解説一覧

源融(みなもと の とおる)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 18:37 UTC 版)

応天の門」の記事における「源融(みなもと の とおる)」の解説

嵯峨帝の子で、信の弟。耽美趣味で、また藤原氏台頭快く思っておらず、源氏財力にあかせて広大な庭園造成するなどした。

※この「源融(みなもと の とおる)」の解説は、「応天の門」の解説の一部です。
「源融(みなもと の とおる)」を含む「応天の門」の記事については、「応天の門」の概要を参照ください。

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