西園寺公経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/12 07:42 UTC 版)
|
|
|
|---|---|
| |
|
| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
| 生誕 | 承安元年(1171年) |
| 死没 | 寛元2年8月29日(1244年10月2日) 北山第 |
| 別名 | 一条入道太相国、今出川相国褝門、西園寺 |
| 官位 | 従一位、太政大臣 |
| 主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 |
| 氏族 | 西園寺家 |
| 父母 | 父:藤原実宗、母:持明院基家の娘 |
| 兄弟 | 三条公定、藤原定家室、公経、公修、藤原公仲、公暁、藤原隆忠室、藤原公国室 |
| 妻 | 一条全子(一条能保の娘)、僧範雅の娘、 平親宗の娘、実材母、源雅頼の娘 |
| 子 | 掄子、実氏、一条実有、洞院実雄、道融、四辻実藤、実材、女子、成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、三条実親室、嘉子、公子 |
西園寺 公経(さいおんじ きんつね、旧字体: 西園寺 公󠄁經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。内大臣・藤原実宗の子。官位は従一位・太政大臣。西園寺家4代だが、同家の実質的な家祖とされる。
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曽祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。小倉百人一首では入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)。
経歴
治承3年(1179年)に従五位上、養和元年(1181年)に侍従、寿永2年(1183年)に正五位下、文治元年(1185年)に越前権介、左少将、同2年(1186年)に備前介、同3年(1187年)に従四位下、同5年(1189年)に讚岐権介、建久元年(1190年)に正四位下、同4年(1193年)に左中将、同7年(1196年)に蔵人頭と陞進。同9年(1198年)、従三位参議に就き公卿に列する。正治2年(1200年)に兼越前権守、建仁元年(1201年)に正三位、同2年(1202年)に権中納言、同3年(1203年)に従二位、右衛門督、左衛門督、元久3年(1206年)に中納言、建永2年(1207年)に正二位権大納言、承元5年(1211年)に兼中宮大夫(同年辞す)、建保6年(1218年)に大納言となり、東宮大夫を兼ねる。
源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曽孫であることから、鎌倉幕府とは親しく、承久元年(1219年)に3代将軍・実朝が暗殺された後は、外孫にあたる三寅(九条頼経)を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった[注釈 1]。同年右大将、右馬寮御監。同3年(1221年)、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせその勝利に貢献した。乱後は、幕府との結びつきを強め、内大臣(51歳)、貞応元年(1222年)に太政大臣、翌貞応2年(1223年)には従一位に陞進し(同年太政大臣辞任)、婿の九条道家と共に朝廷の実権を握った。また、関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。
道家の外孫である四条天皇が仁治3年(1242年)に崩御すると皇位継承の問題が持ち上がり、道家らは順徳上皇の皇子である忠成王を擁立しようとしたが、幕府は承久の乱の関係者である順徳の皇子の擁立には反対し、乱に消極的だった土御門上皇の皇子の邦仁王の擁立を支持した。公経はこの状況を見て、直ちに縁戚の四条隆親の邸宅に邦仁王を迎えて後嵯峨天皇として践祚させた(仁治三年の政変)。政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の娘婿の関白近衛兼経を辞任させて、道家と不和で公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。さらに孫娘(嫡男実氏の娘)の西園寺姞子を後嵯峨天皇の中宮とし、寛元元年(1243年)には姞子所生の久仁親王(後の後深草天皇)を皇太子とした。以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となると共に、持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。
人物
多くの荘園や宋との貿易による莫大な収入で豪華奢侈を極め、処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることも多く[3]、その死に臨んで平経高も「世の奸臣」と日記に記している[注釈 2]。
現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立し、これが同家の家名となった。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった。
和歌
『新古今和歌集』以下の勅撰集に114首が入集している[4]。特に『新勅撰和歌集』に選ばれた以下の一首が『小倉百人一首』にも選ばれ、広く知られている。
勅撰集入集状況
| 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 千載和歌集 | 新古今和歌集 | 権中納言 | 10 | 新勅撰和歌集 | 入道前太政大臣 | 30 | ||
| 続後撰和歌集 | 西園寺入道太政大臣 | 14 | 続古今和歌集 | 10 | 続拾遺和歌集 | 8 | ||
| 新後撰和歌集 | 7 | 玉葉和歌集 | 11 | 続千載和歌集 | 8 | |||
| 続後拾遺和歌集 | 4 | 風雅和歌集 | 1 | 新千載和歌集 | 6 | |||
| 新拾遺和歌集 | 2 | 新後拾遺和歌集 | 2 | 新続古今和歌集 | 1 |
官歴
『公卿補任』による。
| 和暦(西暦) | 月日(旧暦) | 年齢[注釈 4] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 安元2年(1176年) | 2月11日 | 6歳 | 叙爵(従五位下) |
| 治承3年(1179年) | 1月5日 | 9歳 | 従五位上に昇叙(上西門院当年御給) |
| 養和元年(1181年) | 11月28日 | 11歳 | 侍従に任ず |
| 寿永2年(1183年) | 1月5日 | 13歳 | 正五位下に昇叙(上西門院当年御給) |
| 文治元年(1185年) | 1月30日 | 15歳 | 兼越前権介、左近衛少将に任ず |
| 文治2年(1186年) | 2月30日 | 16歳 | 兼備前介 |
| 文治3年(1187年) | 1月5日 | 17歳 | 従四位下に昇叙 |
| 文治5年(1189年) | 1月18日 | 19歳 | 兼讃岐権介 |
| 建久元年(1190年) | 1月5日 | 20歳 | 従四位上に昇叙 |
| 建久2年(1191年) | 2月1日 | 21歳 | 正四位下に昇叙(父・実宗の去年大原野行幸賞) |
| 建久4年(1193年) | 1月18日 | 23歳 | 左近衛中将に転ず |
| 建久7年(1196年) | 12月25日 | 26歳 | 蔵人頭に補す(上臈6人を越える) |
| 建久9年(1198年) | 1月11日 | 28歳 | 新帝蔵人頭、新院別当 |
| 1月30日 | 参議に任ず、左中将如元(蔵人頭を去る) | ||
| 11月9日 | 従三位に叙す | ||
| 正治2年(1200年) | 1月22日 | 30歳 | 兼越前権守 |
| 建仁元年(1201年) | 1月23日 | 31歳 | 正三位に昇叙(朝観行幸賞) |
| 建仁2年(1202年) | 7月23日 | 32歳 | 権中納言に任ず |
| 建仁3年(1203年) | 1月13日 | 33歳 | 従二位に昇叙 |
| 10月24日 | 兼右衛門督 | ||
| 11月23日 | 左衛門督に転ず | ||
| 建永元年(1206年) | 3月28日 | 36歳 | 中納言に転ず |
| 承元元年(1207年) | 1月5日 | 37歳 | 正二位に昇叙 |
| 10月29日 | 権大納言に任ず | ||
| 建暦元年(1211年) | 1月22日 | 41歳 | 兼中宮大夫 |
| 10月2日 | 中宮大夫を辞す | ||
| 建保6年(1218年) | 10月8日 | 48歳 | 大納言に転ず |
| 11月26日 | 兼春宮大夫 | ||
| 承久元年(1219年) | 11月13日 | 49歳 | 兼右近衛大将 |
| 11月18日 | 兼右馬寮御監 | ||
| 承久2年(1220年) | 1月21日 | 50歳 | 春宮大夫を辞す |
| 承久3年(1221年) | 閏10月10日 | 51歳 | 内大臣に任ず、右大将如元 |
| 貞応元年(1222年) | 8月13日 | 52歳 | 太政大臣に任ず |
| 貞応2年(1223年) | 1月27日 | 53歳 | 従一位に昇叙 |
| 4月2日 | 太政大臣を辞す(上表) | ||
| 安貞元年(1227年) | 3月10日 | 57歳 | 後院別当 |
| 寛喜3年(1231年) | 12月22日 | 61歳 | 出家(病による) |
| 寛元2年(1244年) | 8月29日 | 74歳 | 薨去(享年74) |
系譜
脚注
注釈
- ↑ ただし公経は建保5年(1217年)11月に後鳥羽の勘気をこうむって政治力が低下していたため、三寅下向の立役者は摂関家出身の天台座主慈円だとする説もある[1]。
- ↑ もっとも経高は順徳天皇に取り立てられた上で反北条氏であった九条家の側近として活動していた立場であり、同じ『平戸記』では北条時房の死を後鳥羽上皇の祟りと記している。
- ↑ 大意:桜を誘い散らす嵐の庭で、降りしきる雪のような花びらと共に等しく老い衰えてゆくのは、ほかならぬ私自身の身であったのだなあ。
- ↑ 本表の年齢は数え年表記である。寛元2年(1244年)の薨去時の享年74から逆算し、嘉応3年/承安元年(1171年)を誕生年(1歳)として各年の年齢を算出している。
- ↑ 『尊卑分脈』では綸子、『百錬抄』では淑子とする。また、『民経記』(貞永元年10月4日条)では倫子と書かれている。高松百香は夫である九条道家が藤原道長の正室であった源倫子にちなんで諱を定めたとする説を唱えている[5]
- ↑ 実有の母については諸書に異同がある。ここでは『公卿補任』による。『尊卑分脈』では源雅頼の娘とする。ほかに異説として安芸権守仲経の娘がある。
- ↑ 『公卿補任』による。『尊卑分脈』の歿年齢56歳から逆算すると、1205年生となる。
出典
参考文献
- 上横手雅敬『鎌倉時代 その光と影』吉川弘文館〈歴史文化セレクション〉、1994年。 ISBN 9784642063043。
- 角田文衞『平安の春』講談社〈講談社学術文庫1360〉、1999年。 doi:10.11501/13999190。 ISBN 4-06-159360-9。全国書誌番号: 99058074。
- 森幸夫『北条重時』吉川弘文館〈人物叢書260〉、2009年。 ISBN 9784642052535。
- 山岸徳平 編『八代集全註』 第3巻、有精堂出版、1960年。 doi:10.11501/1345688。全国書誌番号: 60009796。
西園寺公経と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 西園寺公経のページへのリンク