藤原基経とは? わかりやすく解説

ふじわら‐の‐もとつね〔ふぢはら‐〕【藤原基経】

読み方:ふじわらのもとつね

[836〜891]平安前期公卿諡号(しごう)、昭宣公通称堀河太政大臣叔父良房養子となり、応天門の変伴善男失脚させ、また、光孝宇多両天皇を擁立して最初関白となり、娘温子女御とするなど、藤原北家権力固めた。「文徳実録」を撰進。→阿衡(あこう)事件


藤原基経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/28 06:18 UTC 版)

 
藤原 基経
時代 平安時代前期
生誕 承和3年(836年
死没 寛平3年1月13日891年2月24日
改名 手古(幼名)→基経
別名 堀川大臣、堀河大臣、堀川太政大臣
諡号 昭宣公(漢風号)、越前公(国公)
官位 従一位摂政関白太政大臣
正一位
主君 文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原長良、母:藤原乙春
養父:藤原良房
兄弟 国経遠経基経高経有子弘経淑子高子清経栄子
人康親王の娘
操子女王(忠良親王の娘)
佳珠子、時平温子仲平兼平忠平、良平、穏子、頼子、佳美子、貞元親王妃、源能有
特記
事項
朱雀村上天皇の外祖父
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藤原 基経 ふじわら の もとつねは、平安時代前期の公卿藤原北家中納言藤原長良の三男。

摂政であった叔父・藤原良房の後継者となり、良房の死後に清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。光孝天皇・宇多天皇期の執政は、日本史上初の関白であったとされる。

経歴

従兄弟・常行と昇進を競う

中納言藤原長良の三男として生まれたが、時の権力者で男子がいなかった叔父・良房にその優れた資質を見込まれて[1]、その養子となった。養子となった時期について、通説では元服仁寿元年(851年))前後とされるが、応天門の変貞観8年(866年))以降とする意見もあり、はっきりしない[2]

また、養子の時期とは関係なく、当初、良房の意中の後継者は弟の藤原良相であり、基経が後継者としての地位が確立したのは応天門の変で良房と良相の関係の亀裂が決定的になって以降とする意見がある(瀧浪貞子)。その理由として、長良没後から応天門の変までの時期、良相の子常行が一貫して基経を上回る昇進を遂げている事を指摘する[3]

仁寿元年(851年)基経は東宮内殿で元服加冠し、仁寿殿文徳天皇に見える厚遇を受ける[4]。臣下が宮中で元服するのは極めて異例で、桓武朝において天皇擁立の立役者であった藤原百川の嫡子である藤原緒嗣の元服が殿上で行われて[5]以来2例目のことであった。なお、当時の東宮は文徳天皇の在所であったことから、東宮内殿は殿上と同等と見なせる[6]蔵人左兵衛尉を経て、仁寿4年(854年従五位下侍従に叙任される。19歳での叙爵は、長兄の国経(32歳)や良房(25歳)に比べて早く、異例の抜擢であった[6]。このような、元服や叙爵における破格の扱いについて、基経は早くから良房の養子であったことを理由とする見方が一般的である[7]

左兵衛尉少納言を経て、天安2年(858年)従五位上・左近衛権少将に叙任されるとともに、同年齢の従兄弟である藤原常行とともに蔵人頭に抜擢された。その後も、貞観2年(860年正五位下、貞観3年(861年従四位下、貞観5年(863年)左近衛中将と昇進するも、このころはわずかに常行に昇進を先んじられており、斉衡3年(856年)に基経の父・長良が没したのを機に、常行が重視されるようになったことの表れとみられる[8]。貞観6年(864年)常行と同時に参議に任ぜられて公卿に列した。

応天門の変を通じて良房の後継者へ

貞観8年(866年)正月に従四位上、3月には正四位下と、基経は常行と同時に昇進する。同年閏3月に応天門が消失する事件が発生。大納言伴善男左大臣源信を放火の犯人として誣告し、これを受けて右大臣藤原良相が左近衛中将であった基経に信の捕縛を命じた。しかし、基経は事は重大であるため、太政大臣・藤原良房の承諾を得ないと応じられないとして、良房に次第を告げる。報告を受けた良房は清和天皇奏上して源信を弁護し、良房の尽力によって信は無実となった。この時の基経の行動により、良房と良相の関係が破綻するとともに、基経に対する良房の評価と信頼が一挙に高まり、良相に代わって基経が良房の後継者となったとする考えがある[9]

その後、密告により伴善男が真犯人とされて流罪となり、連座した大伴氏紀氏の氏人が大量に処罰され、これら上古からの名族へ大打撃を与えた(応天門の変)。同年12月に基経は末席参議から7人の先任者を超えて従三位・中納言に叙任される。この抜擢人事は明らかに良房によるもので、後継者という意味での養子となったのはこの前後と想定される[10]

なお、同年12月に妹の高子が清和天皇の女御となり、貞観10年(868年)に貞明を産んでいる。翌貞観11年(869年)貞明はわずか生後2ヶ月で皇太子に立てられた。

良房が築いた権力基盤を継承

貞観10年(868年左近衛大将を兼ね、貞観12年(870年大納言に昇進する。貞観14年(872年)8月には摂政の藤原良房が重態となる中で、先任大納言の源融が左大臣に、基経は右大臣に任ぜられ、基経は良房が築いた権力基盤を継承する[11]。まもなく良房が没すと、基経は猶子ながら父子の礼で喪に服した[12]。太政官の筆頭には左大臣・源融が立ち、その存在には無視しがたいものがあったが[11]、事実上は基経が政治を執っていた[13]。貞観15年(873年)源融とともに従二位に昇叙されている。

貞観18年(876年)清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)。まだ9歳と幼少であったため、良房の先例に従い新帝の伯父である基経は摂政に任じられる。基経は幼君を補佐するのは太上天皇の役割であるとして、二度に亘ってこれを辞退するが、清和上皇は許さず基経は摂政の任を受けることとなった[14][15]。なお、基経は辞退の理由として、一度目の上表では良房は天皇の外祖父であるから摂政となった(自分はそうではない)、二度目では天下の重大事はを上皇に仰ぎ、その他の小事は令を皇太后に請うようにして欲しい、と宣べている[16][17]。一方で、太政大臣への就任も求められているが、これは辞退している[18]

また、基経は自らの権力の拠り所として、国母皇太夫人)である妹の高子の権威を高めるために、以下のような施策を行っている[19]

  • 清和天皇の摂政であった良房が国母である娘の明子の立場を権威づけるために新たに設けた「中台の印」(中台=皇太后)を、元慶元年(877年)2月に明子の五条宮から高子の中宮職へ移した[20]
  • 高子のを避けるために、高子という名の4人の女官を改名させた[21]

元慶3年(879年)になると基経は陽成天皇に対して、4月から『御注孝経』の[22]、8月から『論語』の講読をさせるなど[23]、本格的な帝王教育を開始した[11]。また、同年9月の斎宮の伊勢群行出立にあたって、天皇に代わって勅を宣べるなど[24]、摂政として精力的に天皇の任務を代行している[25]。一方で、元慶元年(877年)8月に天皇が病気になると、基経は名僧を招いて修法させるとともに[26]、自身は斎戒粛祇して平癒を祈願し、平癒すると自ら春日社に赴いて奉幣するなど[27]、基経は天皇に対して献身的に尽くした様子が窺われる[25]

なお、この頃の基経の政治的な実績として以下のようなものがある[28]

陽成天皇との確執

元慶4年(880年)12月4日に清和上皇が没すると、陽成天皇は基経を太政大臣に任じ引き続き摂政の任に当たることを求めた[29][注釈 1]。しかし、基経は太政大臣就任を強く拒絶し、儀礼的な拝辞数(3度)を超えた5度に渡ってこれを拝辞した。本来、太政大臣は皇親が就任すべき官職であり、良房は清和天皇の外祖父かつ妻も嵯峨天皇の皇女(源潔姫)であったため就任しても不思議ではないが、陽成天皇の外伯父に過ぎない自らにはそぐわないと考えたと想定される。また、清和上皇が没してまもなく、基経の了解を得ることなく陽成天皇が清涼殿から後宮(常寧殿)に遷御したことに不満を持っていたことも執拗な拒絶に繋がったと考えられる[31]。加えてこの間、基経は自邸(琵琶第)に引き籠もったため、政務が滞ることとなった[18]。実際に、元慶5年(881年)2月に陽成天皇が清涼殿に戻ると、基経も出仕をして天皇に拝謁している[32]。しかし、なおも基経は天皇に不快感を持っていたらしく、同年4月の成選短冊の日に、基経の妨害によるものらしく公卿全員が病気と称して列席せず奏覧の儀が延期され[33]、まもなく基経は5度目となる太政大臣の辞表を上表している[34]。一方、この間の同年正月に基経は従一位に昇叙されているが、こちらは一度だけ形式的に辞退するも、すぐに受け入れている[18][35]

元慶6年(882年)正月に陽成天皇が元服したことを受け、基経は摂政の辞職を申し出るが、許されなかった[18][36]。これはこの時代の記録によく見られる儀礼的な辞退ではなく、政治的な意味があったと想定される[37]。陽成天皇の慰留を受けてひとまず基経は辞職を撤回した。しかし、4月の成選位記の賜与の際に、再び基経の圧力によるものらしく中納言以上の公卿全員が障りを称して参上せず儀式が中止される[38]。さらに、7月に基経は再び辞表を提出して朝廷への出仕を停止し、一年半に渡って自邸の堀河院に引き籠もってしまう。翌元慶7年(883年)10月には弁史らが堀河院に赴き庶務を処理する事態となった[39]

摂政とは幼少の天皇を補佐するものとの認識を持っていた基経は、元服した天皇に摂政は不要と考えたものと見られる一方で、執拗な摂政辞任へのこだわりや、長期間の政務放棄は基経の陽成天皇に対する嫌がらせと取れる。基経がこのような嫌がらせを行うようになったのは、元慶6年(882年)2月に内裏の弘徽殿で闘鶏を見物するなど[40]、陽成天皇の天皇としての自覚に欠ける行動が原因とされる[41]

さらに、基経は妹である皇太后・藤原高子とは大変仲が悪かった。在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経が後に外戚関係を放棄をしてまでも高子とその子である陽成天皇を排除させるに至ったとの見方もある[42]。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・貞保親王敦子内親王を儲けた一方で、清和は氏姓を問わず、数多の女性を入内させ、多くの皇子を儲けていた。この流れに沿って、基経も母方の出自が高くない娘・頼子と佳珠子を次々に入内させ、外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。また、当時は摂関政治の成立期であり、母后である高子と摂政である基経の力関係は不安定なものであった。基経を摂政に任じた清和上皇が健在だった時期には基経と高子や天皇の不仲を伝える話はなく、上皇が崩御して母后である高子が天皇を後見して独自の行動を取り始めた頃から急速に関係が悪化しており、高子の権力行使が基経の政治権力を脅かしたとする見方もある[43]

ただし、清和天皇の譲位のに「少主ノ未親万機之間」摂政に任ずると書かれている以上、元服を機に親政(天皇が万機を親らす)への準備を進めた後に辞表を提出し、その後に自宅に退いて天皇の判断を待つのは当然の行為で、しかも儀礼的な辞退の範囲とされる3度目の辞表提出中に天皇の退位騒動が起きたものであるとして、これをもって基経と天皇との関係の判断は出来ないとする反論もある[44]

陽成天皇の退位と光孝天皇の擁立

このような基経の政務放棄や公卿たちに対する圧力に対して、陽成天皇は精力的に行事に参加し、天皇としての裁断を下している[45]

  • 元慶6年(882年)11月に御在所を清涼殿から綾綺殿に遷す[46]
  • 元慶7年(883年)4月に入京した渤海使に対して、菅原道真島田忠臣を接待役に任じ対応させるとともに、招宴を行ったり、騎射・貢馬御覧へ同席させた[47]

この状況の中で、元慶7年(883年)8月に基経は5度目の摂政の辞表を提出するが[48]、以前のような効果はなかったとみられる[41]

同年11月に宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益が格殺(殴り殺すこと)される事件が起きる。「禁省の事秘にして、外の人知ることなし」(『日本三代実録』)と事件の詳細は秘密にされたが[49]、宮中では陽成天皇に殴り殺されたと噂された。この事件の直後、馬好きの陽成天皇がを禁中に作り、卑位の者に馬を世話をさせ、飼っていた事実が明らかになる。自邸に引きこもっていた基経も急ぎ参内し、天皇の取り巻きと馬を放逐させた[50]後の史書には陽成天皇は暴君として描かれており、それによると天皇は蛙や蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたりしたという[要出典]

元慶8年(884年)に入ると陽成天皇が政務や儀式に出席に関わることがなくなり[51]、2月初旬に陽成天皇は基経に対して宸筆を二度に亘って呈示し譲位した[52]。『日本三代実録』には、陽成天皇の譲位の申し出に逆らいがたく基経はやむなくこれを受けたと記されているが、実態としては基経が退位に追いやったものと考えられる[53]

基経は皇嗣選定にあたって、仁明天皇の時代に承和の変で皇太子を廃され既に出家していた恒貞親王に打診するも拒否される[54]。そこで、仁明天皇の第三皇子である時康親王が謙虚寛大な性格であったことから、これを新帝と決めた。時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだすが、基経はを賜った者が帝位についた例はないと退ける[55]。次いで参議・藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決したともいう[56]

皇嗣に時康親王を擁立したことについて、以下の考察が為されている(瀧浪貞子)。

  • 基経が最初に恒貞親王に打診を行ったことについて、もとより基経は時康親王を擁立するつもりであったが、桓武天皇以降の即位年齢は概ね20代から30代であり、特に清和・陽成はいずれも9歳という幼い年齢であったところ、いきなり55歳の時康親王を即位させるのでは貴族たちに違和感が生じる懸念があった。そこで、基経は断られるのを承知でまずは60歳の恒貞親王に打診を行い、その後で時康親王を皇嗣に定めた[57]
  • 基経には娘である佳珠子と清和天皇の子である貞辰親王や、高子と清和天皇の子である貞保親王といった幼い外戚となる皇子がいたが、幼君を擁立することで陽成が太上天皇として実権を握ることを警戒したため、基経は敢えて外戚となる皇子の擁立を忌避した[58]

事実上の関白

同年3月に時康親王は即位(光孝天皇)した際、既に55歳になっていたが、皇嗣の決定については基経に委ねるつもりであえて定めなかった。天皇としては、天皇位を血縁者に継がせたいと基経は希望するであろうはずである、と考えていたらしく、即位式後の4月13日に自身の皇子皇女26人を全員臣籍降下させて源氏とすることで、自らの系統には皇位は継がせない事を基経にアピールした[58]。基経としては、いずれ外孫の貞辰親王を擁立して自らは摂政に就任することを目論んでいたとみられる[59]

また、6月5日には太政大臣である基経に機務奏宣(太政官から上ってきた事項を天皇に奏上する)の権限を認めた詔を発した[60]。機務奏宣は後の関白の職務であり、これは事実上の関白就任とみられている[61]

この頃、以下のような行事が行われており、基経の立場の重さと権力の絶大さが窺われる[62]

  • 仁和元年(885年)12月下旬に内殿にて光孝天皇主催の基経五十の参賀が開催される[63]
  • 仁和2年(886年)正月に基経の嫡男・時平の元服が天皇の在所である仁寿殿出開催される。天皇が直接加冠し、位記は天皇の宸筆であった[64]

仁和3年(887年)8月に光孝天皇は重篤に陥いると、基経は天皇の第7皇子の源定省を皇嗣に推挙した。定省は天皇の意中の子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。定省は光孝天皇即位以前より尚侍を務めた基経の妹淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかった。臣籍降下した者が即位した先例が無かったため、臨終の床にあった天皇は定省を先ず親王に復し、さらに東宮と成すも同日に崩御。翌日定省は直ちに践祚した(宇多天皇)。

ここで、基経は14歳の貞辰親王を元服させた上で皇嗣に擁立することも不可能ではなかったが、陽成上皇と高子皇太后の存在が基経を躊躇させ、やむなく定省を擁立したとも考えられる[65]

阿衡事件

光孝天皇は生前に基経と宇多天皇の手を取り、宇多を基経の子のように輔弼するようにと遺命していた[66]。11月17日に宇多天皇は即位すると、さっそく基経に勅書を送って補佐を要請。加えて、前代より「摂政」であったように、自らに対しても父子のように「摂政」として補佐して欲しいとも述べたという[67]。成人の天皇であった光孝天皇に対して基経は「摂政」とはなっておらず、宇多天皇の「摂政」に対する認識の甘さが、基経との間に齟齬を来す発端となった[68]

11月21日に宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事とし、左大弁橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」との詔を行った。関白の号がここで初めて登場する。一方で、この詔の表題が「摂政太政大臣に万機を関り白す詔を賜う」となっており、宇多は摂政の権限とは天皇を関白することと認識していたと見られる[69]。これに対して、閏11月26日に基経は儀礼的にいったん上表文を提出して辞意を乞う。しかし、成人天皇である宇多天皇の摂政とはありえず、関白であることを十分に認識していた基経は上表文の題名を「太政大臣摂政を辞する第一表」としており、詔にあった「摂政」の語句を反語的に使うことで、宇多天皇の認識に反省を促す意図があったとみられる[70]

しかし、天皇側は基経の意図を理解できず、橘広相に起草させ27日に出された2回目の勅では、表題が「太政大臣関白を辞する答える勅」、本文では「(太政大臣)摂政を辞すると有り」となっており、摂政と関白の違いを認識できていなかった。さらに「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との表現が加えられていた。阿衡とは中国の故事に由来するが、文章博士藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。これについて、基経は自分は摂政ではなく関白であると認識する一方で、関白は名誉職ではなく実のある重職と考えていた様子が窺われる[71]

宇多天皇は困り果て、左大臣・源融を通じ真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。仁和4年(888年)4月に宇多天皇は学者たちに阿衡の職掌有無を考察させるが、佐世の解釈と同様に「阿衡には典職(定まった職掌)なし」との結論であった。さらに、6月には佐世と広相を殿上で対決討論させたが結論は出ず、基経は阿衡の件が決着しない限り政務は執らないとの返答を行う。やむなく、左大臣・源融の進言に従って、宇多は事態を収拾するために「阿衡」の語があった詔書は自らの意に沿わない誤りであったとして、訂正の詔書を出すこととなった。しかし、なおも基経は態度を軟化させず、今度は広相の断罪を求めた。明法博士からは偽った詔書を作成した罪は遠流に相当するとの厳しい答申が出されたが、この時点で基経の怒りは収まっていたらしく、宇多は基経の娘温子女御にすることで融和を図り、基経に広相の処分を行わないよう働きかけることで、10月に和解が成立した。

この事件は基経の天皇に対する示威行為であるとか、娘が宇多の二人の皇子を儲けていた広相の失脚を狙ったものという見解が通説であったが、近年では基経が自らの地位と権限の確認を求めたものであるという説が有力となっている[66]

寛平2年(890年)冬ごろに病床につき、平癒を願って10月30日には大赦が行われ、天皇から度者30人を賜った[72]。基経はこれを拝辞しようとしたが、天皇は重ねてこれを受けるよう勅している[72]。寛平3年(891年)正月に宇多天皇が見舞いのために基経の堀河第への行幸を計画するが、基経が拒否したためか、急遽取りやめとなった[73]。それからまもない1月13日に薨去。享年56。正一位が贈られ、越前国に封じられた上で昭宣公と諡された。

官歴

注記のないものは『六国史』による。

系譜

後世

基経を中祖とする藤原北家及び藤原北家と近しい関係にある村上源氏が朝廷の主流を占め続けた事もあり、近代以前には暴君・陽成天皇を廃した「功臣」として昌邑王劉賀を廃した前漢霍光に擬える説が儒学者を中心に唱えられた。村上源氏の北畠親房は『神皇正統記』において廃位を称賛し、その「積善の余慶」によって基経の子孫が摂関位を独占したと記述している。

芥川龍之介の短編『地獄変』の冒頭に登場する「堀川の大殿様」は基経と推測されている。

脚注

注釈

  1. ^ 公卿補任』等には摂政を改めて関白となるとあるが、正史の『日本三代実録』にはなく、江戸時代に編纂された『大日本史』等では、この時の関白宣下を採っていない。今日の歴史学者でも「関白」の呼称が成立していない時期に遡及させて関白任命とすることに疑問も出されている[30]

出典

  1. ^ 北山茂夫『平安京』〈中公文庫 日本の歴史4〉1973年、242頁。 
  2. ^ 米田雄介「藤原良房の猶子基経」(亀田隆之先生還暦記念会編『律令制社会の成立と展開』吉川弘文館、1989年)
  3. ^ 瀧波貞子 著「陽成天皇廃位の真相」、朧谷壽、山中章 編『平安京とその時代』思文閣出版、2009年、55-61頁。ISBN 978-4-7842-1497-6 
  4. ^ 『公卿補任』
  5. ^ 『続日本後紀』承和10年7月23日条
  6. ^ a b 瀧浪貞子 2017, p. 270.
  7. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 271.
  8. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 237.
  9. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 246.
  10. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 247.
  11. ^ a b c 瀧浪貞子 2017, p. 265.
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『公卿補任』
  13. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 282.
  14. ^ 瀧浪貞子 2001, p. 38.
  15. ^ 『日本三代実録』貞観18年12月1日,4日条
  16. ^ 『本朝文粋』巻4
  17. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 284-285.
  18. ^ a b c d 瀧浪貞子 2001, p. 44.
  19. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 290-291.
  20. ^ 『日本三代実録』元慶元年閏2月27日条
  21. ^ 『日本三代実録』元慶元年2月22日,閏2月7日条
  22. ^ 『日本三代実録』元慶3年4月26日条
  23. ^ 『日本三代実録』元慶3年8月12日条
  24. ^ 『日本三代実録』元慶3年9月9日条
  25. ^ a b 瀧浪貞子 2017, p. 289.
  26. ^ 『日本三代実録』元慶元年8月11日条
  27. ^ 『日本三代実録』元慶2年11月16日条
  28. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 293.
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  30. ^ 佐々木宗雄『平安時代国制史の研究』校倉書房、2001年、18-26頁。 
  31. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 298-300.
  32. ^ 『日本三代実録』元慶5年2月9日条
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  34. ^ 『日本三代実録』元慶5年4月25日条
  35. ^ 『日本三代実録』元慶5年正月15日,19日条
  36. ^ 『日本三代実録』元慶6年正月25日条
  37. ^ 北山茂夫『平安京』〈中公文庫 日本の歴史4〉1973年、262-263頁。 
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  39. ^ 『日本三代実録』元慶7年10月9日条
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  50. ^ 『日本三代実録』元慶7年11月16日条
  51. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 305.
  52. ^ 「私は近年病が多発し、心身共に疲れ果てた。国家を治めることは重く、神器を守ることもおぼつかない。できるだけ早くこの位を譲りたい」『日本三代実録』元慶8年2月4日条
  53. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 306.
  54. ^ 『恒貞親王伝』
  55. ^ 『大鏡』第2巻 太政大臣基経 昭宣公
  56. ^ 『玉葉』承安2年11月20日条
  57. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 310-311.
  58. ^ a b 瀧浪貞子 2001, p. 45.
  59. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 317.
  60. ^ 瀧浪貞子 2001, p. 45-46.
  61. ^ 瀧浪貞子 2001, p. 46.
  62. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 320.
  63. ^ 『日本三代実録』仁和元年12月25日条
  64. ^ 『日本三代実録』仁和2年正月2日条
  65. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 318.
  66. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 115.
  67. ^ 『宇多天皇御記』
  68. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 333.
  69. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 333-334.
  70. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 334.
  71. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 335-336.
  72. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 145.
  73. ^ 『日本紀略』寛平3年正月9日条
  74. ^ a b c d e 『蔵人補任』

参考文献

登場作品

映画
テレビドラマ
テレビアニメ
ラジオドラマ
  • お茶の間劇場 地獄変(1959年 演:三島雅夫) - 登場する「堀川の大殿様」は基経と推測されている。
漫画
  • 超訳・伊勢物語 月やあらぬ(2012~2013年)
  • 応天の門(2014年)
小説

藤原基経

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きっとシリーズ」の記事における「藤原基経」の解説

高子の兄。

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