にんみょう‐てんのう〔ニンミヤウテンワウ〕【仁明天皇】
仁明天皇
823年叔父にあたる淳和天皇の皇太子となり、833年淳和天皇の譲位を受け即位した。
皇太子には淳和天皇の子の恒貞親王たてたが、842年の嵯峨上皇の没後、春宮坊帯刀伴健岑・但馬権守橘逸勢が皇太子の恒貞親王を擁し謀反を企て東国で挙兵するとの密書が暴露され、伴健岑・橘逸勢は配流。
皇太子の恒貞親王は廃太子となった(承和の変)。
後に皇太子には仁明天皇と大納言藤原良房の妹藤原順子との間の子道康親王(後の文徳天皇)を後継に立てた。
その真相は藤原良房が妹藤原順子が生んだ道康親王を立太子させるための陰謀という。
これにより藤原家の専制化が進んだ。
第54代天皇 | |
天皇名 | 仁明天皇 |
読み方 | にんみょうてんのう |
名・諱等 | 日本根子天璽豊聡慧尊 |
読み方 | やまとねこあめしるとよさとのみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 833年から850年 |
生年 | 810 |
没年 | 850 |
父 | 嵯峨天皇 |
母 | 橘嘉智子 |
兄弟 | 正子内親王 |
配偶者 | 藤原順子・藤原沢子 |
皇子女 | 道康親王・時康親王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 深草陵 |
所在地 | 京都市伏見区深草東伊達町 |
仁明天皇 深草陵
(にんみょうてんのう ふかくさのみささぎ)
仁明天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 04:47 UTC 版)
仁明天皇 | |
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仁明天皇(『皇国紀元二千六百年史』より)
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即位礼 | 833年3月30日(天長10年3月6日) |
大嘗祭 | 833年12月29日(天長10年11月15日) |
元号 | 天長 承和 嘉祥 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 淳和天皇 |
次代 | 文徳天皇 |
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誕生 | 810年10月25日(弘仁元年9月24日)[1] |
崩御 | 850年5月6日(嘉祥3年3月21日) 清涼殿 |
大喪儀 | 850年5月10日(嘉祥3年3月25日) |
陵所 | 深草陵 |
漢風諡号 | 仁明天皇 |
和風諡号 | 日本根子天璽豊聡慧尊 |
諱 | 正良 |
別称 | 深草帝 |
元服 | 823年9月8日(弘仁14年8月1日) |
父親 | 嵯峨天皇 |
母親 | 橘嘉智子 |
女御 | 藤原順子 藤原沢子 藤原貞子 |
子女 | 文徳天皇 光孝天皇 ほか(后妃・皇子女節参照) |
仁明天皇(にんみょうてんのう、810年10月25日〈弘仁元年9月24日〉[1] - 850年5月6日〈嘉祥3年3月21日〉)は、日本の第54代天皇(在位:833年3月22日〈天長10年2月28日〉- 850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉)。諱は正良(まさら)。
嵯峨天皇の第二皇子[注釈 1]。母は橘清友の娘の橘嘉智子(檀林皇后)。
後年の史料になるが、『日本三代実録』元慶6年5月14日条(逸文)に、真言宗が承和2年(835年)に仁明天皇から年分度者3名を賜って「九月廿四日天皇降誕之日辰」に金剛峯寺で試度(得度候補者の試験)を行ったと記されていることから、生年月日が弘仁元年9月24日であったことが判明する[1]。正子内親王(淳和天皇皇后)は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の姉と推測される。ただし、正子内親王の生年は『日本三代実録』元慶3年23日条の崩御記事に記された享年からの逆算であり、天皇と内親王が双子であることを明言した史料はないこと、内親王の誕生を大同4年(809年)とする説もあることに注意を要する[3]。平安京遷都後に誕生した最初の天皇である[4]。
略歴
天長10年(833年)2月28日、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位。当初、淳和天皇の皇子恒貞親王が皇嗣に立てられたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、道康親王の伯父である藤原良房の陰謀があったと言われている。
承和10年(843年)、文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処した[注釈 2]。この件の遠因は諸説あるが、承和の変の影響であるとも、良房ら藤原北家が貿易利権を独占したいとの思わくの中、同じく貿易に関与している宮田麻呂を排除した、などの説がある。
承和12年(845年)、自身の更衣であり子(貞登、当時は源登[注釈 3])をも成した三国町と、女御の藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、地方官に左遷する[注釈 4]。
嘉祥3年(850年)3月19日に病により、文徳天皇に譲位。太上天皇位に就くことなく、2日後の同年3月21日に崩御。宝算41。
天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。また、『三代実録』の藤原良相の薨去の記事では、天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。『続日本後紀』嘉祥3年2月22日条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事があり、既に重病であった自分の姿を見せないように御簾で隠して議論を聞いていたことが窺える(天皇はその1カ月後に崩じている)[5]。
江戸時代の儒学者の頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している[6]。仁明天皇の伝記を執筆した遠藤慶太も、承和の変を「易儲」(皇太子の変更)を図るための政変であるとして仁明天皇の関与・責任を重視し、「藤原良房の陰謀」とする説は政変の意義の矮小化であるとしている[7]。
承和色
仁明天皇は菊の花を愛したことから、菊の花のような淡い黄色を、在位中の元号「承和(じょうわ)」にちなみ「承和色(そがいろ、じょうわいろ)」と呼ぶ[8]。
系譜
仁明天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
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50 桓武天皇 |
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51 平城天皇 |
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伊予親王 |
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万多親王 |
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52 嵯峨天皇 |
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53 淳和天皇 |
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葛原親王 |
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良岑安世 |
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高岳親王 |
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阿保親王 |
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54 仁明天皇 |
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有智子内親王 |
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源信 〔嵯峨源氏〕 |
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源融 〔嵯峨源氏〕 |
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源潔姫 |
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恒貞親王 |
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平高棟 |
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高見王 |
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遍昭 |
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在原行平 |
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在原業平 |
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平高望 〔桓武平氏〕 |
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素性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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54 仁明天皇 |
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55 文徳天皇 |
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58 光孝天皇 |
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人康親王 |
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56 清和天皇 |
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惟喬親王 |
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59 宇多天皇 |
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藤原基経妻 |
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57 陽成天皇 |
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貞純親王 |
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真寂法親王 (斉世親王) |
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敦実親王 |
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源清蔭 〔陽成源氏〕 |
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源経基 〔清和源氏〕 |
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源雅信 〔宇多源氏〕 |
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60 醍醐天皇 |
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后妃・皇子女
- 女御(皇太后):藤原順子(809年 - 871年) - 藤原冬嗣女
- 第一皇子:道康親王(文徳天皇)(827年 - 858年)
- 女御(贈皇太后):藤原沢子(? - 839年) - 藤原総継女[注釈 5]
- 女御:藤原貞子(? - 864年) - 藤原三守女
- 第八皇子:成康親王(837年 - 853年)
- 皇女:親子内親王(? - 851年)
- 皇女:平子内親王(? - 877年)
- 女御:滋野縄子 - 滋野貞主女
- 女御:橘影子(? - 864年) - 橘氏公女
- 女御:藤原息子
- 更衣:紀種子(? - 869年) - 紀名虎女
- 更衣:三国町 - 三国氏女
- 皇子:貞登
- 宮人:藤原賀登子 - 藤原福当麻呂女
- 第六皇子:国康親王(? - 898年)
- 宮人:藤原小童子 - 藤原道長(藤原南家藤原真友男子)女
- 皇女:重子内親王(? - 865年)
- 宮人:高宗女王 - 岡屋王女
- 宮人:山口氏
- 皇子:源覚(849年 - 879年)
- 宮人:百済王豊俊女
- 女嬬:百済王永慶 - 百済王教俊女
- 皇女:高子内親王(? - 866年)
- 生母不明
臣籍降下をしていない皇子の出生順は正史などから追える諸行事の時期により、『本朝皇胤紹運録』記載通りと推測可能である。内親王に関しては、『本朝皇胤紹運録』に時子・新子・柔子・真子・親子・平子・重子・久子・高子の順に掲載されているが、天長10年(833年)に久子と高子がそれぞれ斎宮・斎院に選ばれているため、同年時点で誕生していたと推測されるが、正史における記載が少ないために出生順を確定させるのは困難である[9]。
和風諡号・異名
和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。和風諡号を奉贈された最後の天皇である。御陵の在所をもって深草帝(ふかくさのみかど)という異称がある。
在位中の元号
陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形。
これは文久の修復のさいに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
注釈
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では第一皇子、『神皇正統記』・『椿葉記』では第二皇子とする。村田正志は同じ弘仁元年生まれとされている源信が、天皇よりも月日的に先に生まれたとする所伝があったと推測している[2]。ただし、村田説は大同4年(809年)以前に生まれた可能性が高い業良親王の存在に触れていない。
- ^ のち、無罪であるとされた。
- ^ 属籍を剥奪され出家。文徳天皇の治世に賄料が与えられるようになったがその後も冷遇され、天皇の薬の毒見役などをしていた。貞観8年(866年)に兄弟親王らの上奏により還俗したのちも「源」姓に復帰できず、「貞」姓を与えられた。
- ^ 有貞は文徳天皇治世の仁寿2年(852年)に中央に復帰。
- ^ 一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデル。
出典
- ^ a b c 遠藤 2022, p. 1.
- ^ 村田正志『村田正志著作集 第4巻證註椿葉記』思文閣出版、1984年、241頁。
- ^ 遠藤 2022, p. 15.
- ^ 遠藤 2022, p. 6.
- ^ 川尻秋生「陣定の成立」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年。ISBN 978-4-8273-1268-3。
- ^ 『日本政記』
- ^ 遠藤 2022, pp. 113–122.
- ^ 伝統色のいろは-Traditional colors of Japan-
- ^ 安田政彦「平城から清和皇子女までの出生順」『平安時代の親王と政治秩序-処遇と婚姻-』吉川弘文館(2024年)、P126-127.(原論文は2001年)
参考文献
- 遠藤慶太『仁明天皇』〈人物叢書〉2022年。ISBN 978-4642053105。
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